【校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

古典文学の時代から日本に伝わる詩のひとつに短歌があります。

 

五・七・五・七・七の三十一文字で自然の美しい情景を詠んだり、繊細な歌人の心の内をうたい上げます。

 

今回は、ニューウェイブ短歌を牽引し、歌壇の枠を超えてエッセイストとしても活動。若者を短歌に引き寄せるのに大きな力を発揮している、穂村弘の歌「校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け」をご紹介します。

 


 

本記事では、「校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け」の詳細を解説!

 

校庭の 地ならし用の ローラーに 座れば世界 中が夕焼け

(読み方:こうていの じならしようの ローラーに すわればせかい じゅうがゆうやけ)

 

作者と出典

この歌の作者は「穂村弘(ほむら ひろし)」です。

 

前衛短歌の感覚やアプローチはそのままに「今」を扱い、日常語で表現するニューウェーブ短歌の第一人者です。

 

この歌の出典は『ドライ ドライ アイス』です。平成3年(1992年)刊『シンジケート』に続く第二歌集です。

 

現代語訳と意味 (解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「校庭にある地ならし用のローラーに座って夕陽を眺めると、まるで世界中が夕焼けになったかのようだった。」

 

という意味になります。

 

校庭の整備用 (石ころを踏みつぶし平坦にする) のローラーが、校庭の隅に置かれています。主人公は、おそらく運動部の部員なのでしょう。下校時刻になって皆が帰ってしまった校庭で、ローラーの上に座って夕焼けを見ると、まるで夕焼けをひとり占めしているような気分になります。胸に迫るさまざまな想いを「世界中が夕焼け」という言葉に込めた一句です。

 

文法と語の解説

  • 「校庭の」

「校庭の」は「校庭にある」という意味です。「の」で場所を指し示しています。この歌の舞台になっているのは校庭で、歌の主人公はおそらく学生であることを示しています。

 

  • 「座れば」

「座れば」の「れば」は確定順接条件の「ば」で、「原因・理由」を説明します。直訳すると「座ったので」となります。しかし、ここでは「座って、そして空を見上げたら」という時間的な順序を表しています。

 

「校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことで、読むときもここで間をとると良いとされています。

 

この句に句切れはありませんので、「句切れなし」です。

 

体言止め

体言止めとは、文末を助詞や助動詞ではなく、体言(名詞・代名詞)で結ぶ表現方法です。文を断ち切ることで言葉が強調され、「余韻・余情を持たせる」「リズム感をつける」効果があります。

 

この歌の最後は「夕焼け」という名詞です。燃えるような赤い色を想起させる「夕焼け」という言葉を最後に置くことにより、読者に鮮明な印象を与えます。

 

また、「夕焼け」で終えて、その後に動詞や助詞を置いていないため、夕焼けがいつまでも続いているような印象を与える効果があります。

 

句またがり

句またがりとは、文節の終わりと句の切れ目が一致しない状態を言います。句またがりは、短歌のように句数の定まった定型詩で使われる技法です。

 

「座れば世界中が夕焼け」を文節で区切ると「座れば (4文字)」「世界中が夕焼け (10文字)となるので、「句またがり」となります。

 

校庭の 地ならし用の ローラーに 座れば世界 中が夕焼け

 

歌のリズムを効果的に変化させ、印象を残りやすくしています。

 

「校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け」が詠まれた背景

 

この歌の主人公は、中学生または高校生で運動部の部員なのでしょう (校庭を使う屋外競技)

 

作者が短歌を作り始めたのは、大学時代なので、この歌は、中学時代または高校時代を振り返って詠んだ歌だと思われます。

 

作者の出身高校は、名古屋市立桜台高校。男子ハンドボールの強豪校として有名です。作者は高校時代、天文部に所属していました。

 

教室で活動する天文部と「校庭の地ならし用のローラー」は結びつかないような気もしますが、作者が部活帰りに見た燃えるような夕陽に心を動かされてこの歌を詠んだことは、間違いないでしょう。

 

「校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け」の鑑賞

 

この歌について、作者である穂村弘自身が以下のように解説しています。

 

「現実には世界中が同時に夕焼けであることなどありえないわけだから、これは世界がまだ小さい人の感覚だよね。子供って自分の家しか知らないし、小学生ぐらいだと自分の町しか知らない。もうちょっと大きくなっても沿線のキーステーションが一番大きい駅だと思ってるみたいなことで、その世界の広さって年齢とか経験に比例するから、この人はまだ世界を知らないわけです。今自分が夕焼けのなかにいるから「世界中が夕焼け」であるという。でも、世界を知ってしまったあとには表現できない思い込みや抒情ってあると思う。「世界中が夕焼け」っていうことはありえないって知ってしまったら、もうそういうふうには表現できない。でも、実際には感覚として「世界中が夕焼け」ってことはあるわけで。世界をリアルに知ることがすべての詩をよりよくするわけじゃなくて、逆に書けないことができてしまう、知らないから書ける、みたいな面もあるんじゃないですか」

引用:『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』(2012年刊行) より

 

中学生・高校生にとっては、自分の知っている世界がすべてなのです。自分の世界が小さいからこそ、悩みや絶望感は深く、ちょっとしたことで天から地へと突き落とされることもある。

 

そんなヒリヒリと焼け焦げそうな若い感性を「世界中が夕焼け」という言葉で見事に表現しています。

 

また、主人公が「ローラーの上に座っている」のはなぜなのか、読み手としては疑問が残るところです。

 

これについては、先ほど紹介した『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』の中で、作者自身が「すでにもう地ならしされたところに下りられなくなったというイメージである」と語っています。

 

これは作者にしかわからないことです。作者本人による解説によって、違う角度で歌を解釈することができ、鑑賞の楽しみが増しますね。

 

運動部の部員は、その日の練習が終わった後、ローラーできれいに校庭を地ならししてから家に帰ります。歌の主人公は、校庭に立って、きれいに地ならしされた校庭を乱すわけにはいかないと思い、ひとりそっとローラーの上に座ります。

 

静かな孤独感と、燃えるような夕焼けから連想される高揚感を感じさせる歌となっています。

 

作者「穂村弘」を簡単にご紹介!

 

穂村弘は、文語体で書かれることが一般的だった1990年代に、口語体で歌を詠んだニューウェーブ短歌の先駆けです。歌人としてだけでなく、エッセイや絵本など幅広く活躍しています。生年は1962年(昭和37年)で、北海道札幌市の出身です。

 

上智大学文学部に在籍中、大学の図書館で林あまりの短歌に出会って刺激を受けました。学生だった24歳のときに、角川短歌賞次席となります。

 

雑誌や新聞で短歌を募集する連載をしており、まとめたものが書籍にもなっています。一首ごとに良いところや感想のコメントが入っています。人が詠んだ短歌を読むのが楽しい(本人談)ということがよく伝わってきます。

 

従来の短歌の短歌らしさを超えて、爽快で破天荒な歌を詠む歌人です。

 

 

「穂村弘」のそのほかの作品

 

  • シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり永遠なんてどこにも無いさ
  • 体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ 雪のことかよ
  • 「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
  • 終バスにふたりは眠る 紫の<降りますランプ>に取り囲まれて
  • 風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり
  • オレンジの毛虫うねうねうねうねと波打っている こっちがあたま