【玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

古くより親しまれてきた日本の伝統文学のひとつである「短歌」。

 

五・七・五・七・七の形式で表現した短歌には、歌人の心情を描く叙情的な作品が多くあります。

 

中でも恋心を題材にした歌は、『万葉集』や『百人一首』など古来の歌集でもたびたび詠まれてきました。

 

今回は、胸中に秘めた恋を情熱的に歌いあげた「玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」という歌をご紹介します。

 

 

本記事では、玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」の詳細を解説!

 

玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする

(読み方:たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする)

 

作者と出典

この歌の作者は「式子内親王(しょくし/しきし/のりこ ないしんのう)」で、平安後期~鎌倉初期かけての活躍した女流歌人です。

 

厳しい禁忌のもとに生き式子は、「忍ぶ恋」の苦悩を詠んだ歌を多く残しました。

 

この歌の出典は『小倉百人一首』(歌番号89番)および『新古今和歌集』(恋一・1034)です。『新古今和歌集』では女性として最多の49首が入集し、当時から高い評価を得ていたことが窺えます。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「私の命よ、絶えるのならば絶えてしまえ。このまま長く生きていくうちに、恋に耐え忍ぶ力が弱まってしまうといけないから。」

 

という意味になります。

 

式子は結婚を制限された高貴な身分のため、恋を実らせるどころか人にも話すことができない状況でした。

 

しかし、長く生きれば生きるほど心に秘めた心が表に出てしまいそうで、それならいっそのこと命が絶えてしまってもかまわないと歌っています。「忍ぶ恋」の苦しさを、切なくも激しい表現で詠みあげています。

 

文法と語の解説

  • 「玉の緒よ」

玉の緒とは、首飾りなどに使われる玉を貫く紐のことです。そこから「魂を貫く緒」。つまり、命そのものを意味しています。「玉の緒よ」の「よ」は、呼びかけを表す間投助詞です。

 

  • 「絶えなば」

「絶えなば」の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形です。「未然形+ば(接続助詞)」の形式で、「もし~ならば」と仮定条件を表します。この句は「もし絶えてしまうものならば」と訳すことができます。

 

  • 「絶えね」

「絶えね」の「ね」は、強意の助動詞「ぬ」の命令形です。「絶えてしまえ」、つまり「死んでもかまわない」という強い決意が感じられます。

 

  • 「ながらへば」

「長らふ(ながらふ)」の未然形+ば(接続助詞)になるので、「生きながらえてしまうのであれば」と訳します。

 

  • 「忍ぶる」

上二段動詞「忍ぶ」の連体形で、「我慢する」「感情を抑えて耐える」ことを意味します。

 

  • 「弱りもぞする」

強意の係助詞「も」・「ぞ」が重なり、「~すると困る」「~といけないから」という意味になります。未来に対する危惧を表しており、耐え忍ぶ力が弱り胸中の恋心が表に出てしまうことを懸念しています。

 

「玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」の句切れと表現技法

句切れ

この歌は、二句切れです。

 

自分自身の命に向かって「絶えてしまうのなら、絶えてしまいなさい」と強い命令形で詠んでいます。読む人はいったい何があったのだろうと、その後の展開を期待するでしょう。

 

新古今時代にはこうした二句切れや三句切れの歌が流行していました。

 

縁語

縁語とは、一首の中にある語とそれに縁のある語を歌の中に詠みこむ修辞技法のひとつです。例えば「蝶」の縁語は「ひらひら」「舞う」、「舟」の縁語は「漕ぐ」「海」などが挙げられます。

 

ただし、あくまでひとつの技巧として取り入れることが重要であるため、歌の展開上必然的に関係する語は縁語とは呼ばれません。

 

この歌では、「緒」の縁語として「絶え」「ながらへ」「よわり」3つがあります。

 

どれも緒の状態に関連した言葉で、「切れる」「長く続く」「弱る」というように、緒のイメージに統一された言葉選びが周到にされています。

 

「玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」が詠まれた背景

 

式子は後白河天皇の第三皇女で、10歳前後から約10年間「斎院」を務めました。斎院とは京都の賀茂神社に奉仕する女性のことを指し、天皇が代替わりするたびに未婚の皇女から選ばれました。

 

いわば「神様の妻」ともいえる立場であるため、任期中も未婚であることはもちろんのこと、任期を全うした後も皇族や最上級の貴族としか結婚を許されませんでした。

 

斎院に立った式子は、愛や恋といった人並みの生活が許されず、生涯を深窓にすごさねばならない女性だったのです。だからこそ、このような感情を抑えきれずに詠んだ恋の相手は誰だったのか、興味を駆り立てられるところです。

 

一説によると、その人物とは「百人一首」の撰者・藤原定家ではないかと言われています。式子に歌を教えていたのは藤原俊成だったことから、その息子である藤原定家とも親交をもつようになったとされています。

 

定家の日記『明月記』にも、たびたび式子に関する話が書かれており、両者の関係は深いものだったと考えられています。もし事実であれば定家との身分さからも、「忍ぶ恋」であったことは間違いありません。

 

しかし、この歌の詞書(歌が詠まれた時や場所、事情などを説明する短い文)には、「忍ぶ恋」という題を与えられて詠んだとあります。

 

つまり、実生活の中から生まれたものではなく、恋ができない彼女の虚構の世界である可能性は高いといえます。

 

式子は制限された人生の中、短歌の世界では自由を見つけることができたのかもしれません。

 

「玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」の鑑賞

 

こちらの短歌は、二句までの激しさと、三句以降の儚げな不安が対照的な歌です。

 

自分自身の命に向かって、「絶えるのなら絶えてしまえ!」と迫力ある命令口調で表現されていますが、どこか投げやりともとれる心情が感じられます。

 

「いっそのこと死んでもかまわない」とまで思いつめる理由について、歌の後半に書いてあります。

 

「これ以上長く生きてしまうと、胸中に秘めた恋を抑えきれなくなってしまうから・・・」と前半の激しさとは一転し、女性らしい柔らかな口調で詠まれています。

 

このアンバランスさが見事に「忍ぶ恋」の複雑さを描いています。

 

遥か昔に詠まれた短歌でありながら、世間だけでなく恋の相手にも知られまいとする恋の苦悩がひしひしと伝わってきます。

 

作者「式子内親王」を簡単にご紹介!

(式子内親王 出典:Wikipedia

 

式子内親王(1149年~1201年)は、後白河天皇と藤原成子との間に生まれた第三皇女です。萱斎院、大炊御門斎院とも呼ばれました。

 

1169年病により斎院を降りた後、母方の屋敷である高倉殿で暮らします。その後、父の後白河院の法住寺殿内・萱御所を経て、叔母・八条院暲子内親王のもとに身を寄せました。

 

しかし八条院とその猶子の姫宮(式子内親王の姪にあたる)に呪いをかけたとの噂が立てられ、身の潔白を証明するため1191年頃に出家します。

 

少女~青年期を神に、晩年は仏に仕えた式子は、53年の生涯をおえるまで独身を貫きました。

 

歌人としての式子の評価は高く、新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人にも称されるほどです。式子の歌は女性らしい繊細な情感が特色で、後鳥羽院に見出され後はさらに才能を開花させていきました。

 

歌合にはあまり出ておらず、現存する作品も400首も満たないのですが、その内157首が勅撰集に入集するなど時代を代表する女流歌人として活躍しました。

 

式子内親王のそのほかの作品

(京都市にある伝式子内親王墓 出典:Wikipedia

 

  • 春も先づ著く見ゆるは音羽山峰の雪より出る日の色
  • 春風やまやの軒ばを過ぎぬらんふりつむ雪のかほる手枕
  • 消えやらぬ雪にはつるる梅が枝の初花染のをくぞゆかしき
  • 鶯はまだ声せねど岩そそぐ垂水の音に春ぞ聞ゆる
  • はかなくて過にし方を数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける
  • 花咲しおのへはしらず春霞千草の色の消ゆるころかな
  • 色つぼむ梅の木の間の夕月夜春の光を見せそむるかな
  • 春くれば心もとけて淡雪のあはれふり行身をしらぬかな
  • 見渡せば此面彼面にかけてけりまだ緯うすき春の衣を
  • 春ぞかし思ふばかりに打霞みめぐむ木ずゑぞ詠められけり
  • 花ならでまた慰むる方もがなつれなく散をつれなくぞ見ん
  • けふのみと霞の色も立別春は入日の山のはの空
  • 春の色のかへうき衣脱ぎ捨てし昔にあらぬ袖ぞ露けき
  • 梅花恋しきことの色ぞそふうたて匂の消えぬ衣に
  • 残り行有明の月のもる影にほのぼの落つる葉隠れの花
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