近代短歌の礎を築いた明治時代の歌人・正岡子規。その正岡子規の短歌の理念の後継者と言われるのが「長塚節」です。
今回は、長塚節の名歌「垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども」をご紹介します。
やすらぎの夜を🌹
垂乳根の 母が釣りたる 青蚊帳を
すがしといねつたるみたれども
by長塚節🌹母の温もりをしる人は既に幸せ。叶わぬ人もいる感謝🌹❤( ´∀`) pic.twitter.com/eSmxAgly7e— 妖怪ぬらり~👻 (@RrhHzSdXdsSpGxe) February 22, 2017
本記事では、「垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども」の詳細を解説!
垂乳根の 母が釣りたる 青蚊帳を すがしといねつ たるみたれども
(読み方:たらちねの ははがつりたる あおがやを すがしといねつ たるみたれども)
作者と出典
この歌の作者は、「長塚節(ながつか たかし)」です。
長塚氏は茨城県の豊かな農家の出身です。正岡子規の『歌よみに与ふる書』を詠んで写生的に詠む短歌に共感、正岡子規を訪ねて学んだ歌人です。
この歌の出典は、昭和5年(1930年)刊『長塚節歌集(ながつかたかしかしゅう)・下』です。この歌集には、明治44年(1911年)~大正3年(1913年)の歌が収められています。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「母がつってくれた青い蚊帳の中で、さわやかで気持ちがいいなと思って眠ったことだ。蚊帳はたるんでいたけれども。」
となります。
長塚節の生涯は、病との長い戦いでした。この歌は大正3年(1913年)の作ですが、咽頭結核の治療のため、入退院を繰り返していました。病室ではなく、母のいる実家で母のつってくれた蚊帳で寝られる喜びが感じられる歌です。
文法と語の解説
- 「垂乳根の」
「垂乳根の」は「たらちねの」と読みます。「母」にかかる枕詞です。(枕詞については、次項で詳しく説明します。)
- 「母が釣りたる」
「が」は格助詞です。
「釣りたる」は、動詞「釣る」の連用形「釣り」+完了の助動詞「たる」終止形です。
- 「青蚊帳を」
「青蚊帳」は「あおがや」と読みます。
「蚊帳(かや)」とは、麻などをネット状にして、つって寝床をおおい、蚊などの害虫をさけ、風は通すようにしたものです。
- 「すがしといねつ」
「すがし」は形容詞「すがし」の終止形です。「さわやかで気持ちがよい」という意味です。
「と」は格助詞です。
「いねつ」は、動詞「寝ぬ(いぬ)」の連用形「いね」+完了の助動詞「つ」です。
- 「たるみたれども」
「たるみたれども」は、動詞「たるむ」の連用形「たるみ」+完了の助動詞「たり」已然形「たれ」+接続助詞「ども」です。
「たるんでいたけれども」という意味です。
「垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、歌の中の大きな意味の切れ目のことです。
この歌は、四句目「すがしといねつ」で意味が一旦切れますので「四句切れ」の歌です。
枕詞
枕詞とは、特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のことです。
この歌は「垂乳根の(たらちねの)」という言葉が、「母」にかかる枕詞となっています。
「垂乳根」とは、乳房の垂れた女性、母親のことだともいわれますが、確かなことはわかっていません。「たらちねの」で、「母」や「親」にかかる枕詞として『万葉集』の時代から用いられています。
倒置法
倒置法とは、普通の言葉の並び順を逆にして、印象を強める技法です。
この歌でも本来の意味どおりに文を構築すると、四句目は「たるみたれども」という語順になります。
倒置法にすることで、自宅の母がつってくれた蚊帳の中で眠れるしみじみとしたうれしさを印象的に表現しています。
「垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども」が詠まれた背景
この歌は、大正3年(1913年)に詠まれた歌です。
長塚節は、この2年ほど前に咽頭結核にかかっていることが分かり、入退院を繰り返していました。
この歌には、詞書(ことばがき:歌が詠まれた状況などを説明したもの)がついています。
「病院の一室にこもりける程は心に悩むことおほくいできて(中略)、五月三十日といふに雨いたく降りてわびしかりけれどもおして帰郷す」
(現代語訳:病院の一室にこもっているうちに、心に思い悩むことが多くなり、5月13日、雨がたくさんふってわびしい日であったが、そこをおして帰郷した。)
病院のうつうつとした病室を出て、ふるさとに帰り、母のつってくれた蚊帳で寝た夜のことを詠んでいるのです。
この「垂乳根の…」の歌のあとに、2首、同じ夜のことを詠んだ歌があります。
小さなる蚊帳もこそよきしめやかに雨を聴きつゝやがて眠らむ
(現代語訳:小さな蚊帳がよいのだ。静かに降る雨の音をひっそり聞きながら、そのまま眠ったことだ。)
蚊帳の外に蚊の声きかずなりし時けうとく我は眠りたるらむ
(現代語訳:蚊帳の外に、蚊の羽音が聞こえなくなるころ、なんとなく眠りに落ちていったことだ。)
この年の夏が、長塚節にとっては最後の夏となったのでした。享年35歳、才能あふれる文学者の痛ましく早すぎる死でした。
「垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども」の鑑賞
「垂乳根の」は「母」や「親」にかかる枕詞です。
枕詞自体の意味は、短歌の中で大きな意味を持たないともいわれますが、年老いてなお、子を思いやって蚊帳をつって寝かせてくれる母の親心をありがたく思う敬愛の気持ちが「垂乳根の」という枕詞から感じられます。
「すがし(さわやかで気持ちがいい)」というのは、青い蚊帳越しに感じられる夏の風だけではなく、病院から解放されて、懐かしい家で一夜を過ごせることへの心地よさ、解放感も込められているのでしょう。
実家に帰省した喜び、かいがいしく世話を焼いてくれる母親への思いが、多くの人の共感を呼ぶ歌です。
作者「長塚節」を簡単にご紹介!
(長塚 節 出典:Wikipedia)
長塚 節(ながつか たかし)は、明治12年(1879年)に生まれ、大正4年(1915年)に35歳没した、歌人であり小説家です。
茨城県岡田郡国生村(現・常総市国生(こっしょう))の裕福な農家の家の生まれで、茨城中学校を首席で入学しましたが、脳神経衰弱となりました。
実家で療養しながら本を読み、文学に親しみ、19歳の頃、新聞「日本」紙に連載されていた、正岡子規の『歌よみに与ふる書』を詠んで深く感銘を受け、21歳で子規の門下に入り、短歌雑誌『アララギ』の創刊にも関わりました。
正岡子規死後も、子規が唱えた写生主義の歌風を保ち続け、歌人としては子規の正統な後継者としての評価をされています。
長塚節は小説も書きました。当時の農村の農民の生活を写実的に描いた小説『土』明治45年(1912年)刊行は、長塚隆の代表作にして、農民文学の傑作でもあります。
明治44年(1911年)、32歳の頃にのどの痛みを訴え、咽頭結核に罹患していることが分かりました。東京、九州、京都と医師を尋ねて治療を繰り返しますが、大正4年(1915年)、帰らぬ人となりました。享年35歳でした。
「長塚節」のそのほかの作品
(長塚節逝去の地 出典:Wikipedia)
- 白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり
- 草臥を母とかたれば肩に乘る子猫もおもき春の宵かも
- 白銀(しろがね)の鍼(はり)打つごとききりぎりす幾夜(いくよ)はへなば涼しかるらむ
- 馬追虫(うまおひ)の髭(ひげ)のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし
- みやこぐさ更紗染めたる草むしろしづかにぬれて霧雨ぞふる
- さわやかに鳴くなる蛙たとふれば豆を戸板に轉ばすがごと