【マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

戦後の歌壇に奔放多彩な才能で切り込んでいった前衛歌人・「寺山修司」。

 

彼の既存短歌に対するアンチテーゼのような作品は、今なお多くの人々に愛され続けています。

 

今回は彼が残した歌の代表作ともいえる「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という歌をご紹介します。」

 


本記事では、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の詳細を解説!

 

マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや

(読み方:まっちする つかのまうみに きりふかし みすつるほどの そこくはありや)

 

作者と出典

この歌の作者は、「寺山修司(てらやましゅうじ)」です。

 

寺山氏は中学生の頃から詩作に励み、早熟の才能を発揮しました。表現の場は短歌だけでなく、戯曲やシナリオ、小説など、幅広い分野にも広げています。

 

また、この歌の初出は1957年(昭和32年)の作品集『われに五月を』で、典拠は1958年(昭和33年)に刊行された第一歌集『空には本』です。

 

この当時、寺山は18歳という若さで青春を高らかに歌い上げた作品が多く集められています。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「マッチを擦る一瞬、海に深い霧が立ち込めている情景が浮かび上がる。我が命を捧げるほどの祖国はあるのだろうか。」

 

という意味になります。

 

夜の波止場でマッチに火をつけた一瞬の明るさで、暗い海に霧が深く立ち込めていることが浮かび上がりますが、すぐに消えてしまいます。

 

その束の間の情景が、定まらない作者自身の心情が重なり、心深くに抱いていた「祖国」への疑念をあぶりだしているように描かれています。

 

文法と語の解説

  • 「マッチ擦(す)る」

ここでは目的格の助詞「を」が省略されています。

 

  • 「ふかし」

形容詞「深し」の終止形で、この歌では平仮名で表記しています。

 

  • 「身捨つるほど」

こちらにも目的格の助詞「を」が省略されています。

「身(を)」+「捨てる」の文語「捨つ」の連体形「捨つる」+体言「ほど」の形式です。「我が身を犠牲にするほどの」という解釈します。

 

  • 「ありや」

「ある」の文語「あり」+疑問・反語を表す助詞「や」の形式で、「あるだろうか・・・いやないだろう」となります。

 

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、意味や内容、調子の切れ目を指します。歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。」が入るところに注目すると句切れが見つかります。

 

この歌は三句目「霧ふかし」と終止形が用いられており、一旦歌の流れを句切ることができるので三句切れ」となります。

 

三句目までで、マッチの火が大きく燃え上がる一瞬の情景を描き、四句目以降で作者の信じるべき理念を失った不安や虚しさが表現されています。

 

反語表現

反語とは、断定を強調するために疑問を呈しながら否定する表現技法のことです。

 

この歌では疑問の助詞である「や」を歌の結びにおくことで、「祖国はあるのだろうか、いやあるはずがない」と強く否定しています。

 

反語表現を用いることで、不透明な祖国の行く末や、国の理想を追求することへの懐疑の念が強調され、歌の味わいがより深いものになっています。

 

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」が詠まれた背景

 

この歌は、1957年(昭和32年)1月に出版された『われに五月を』の「祖国喪失」と題された一連に収録されました。その翌年、第一歌集『空には本』にも収められた歌です。

 

この作品が発表された当時の日本は、終戦から立ち上がり、復興・発展にむけて走りはじめている時代でした。多くの人々は希望に満ちた未来を語り、自由を謳歌する一方、信じるべき理念を失った不安の影がゆっくりと広がりつつありました。

 

寺山が「身捨つるほどの祖国」と詠んだ背景には、大日本帝国のためと信じて戦い死んでいった父の姿があります。終戦直後、寺山は満10歳という少年でした。

 

戦時中「欲しがりません勝つまでは」と「滅私奉公」を強いられていた日々は一転し、大人たちはこぞって「戦争は反対だった」「今まで教えていたことは間違いだ」といいます。

 

その姿に、早熟だった少年・寺山は「祖国とはなんなのか」「父の死の意味は」「自分のあり方とは」と様々な自問自答が脳裏に満ちていたことでしょう。

 

ただ、もう一方で、寺山自身がこの短歌の創作過程について触れている内容を読むとまた違った見解もできます。

 

彼の自伝抄『消しゴム』によると、チャイナタウンで知り合った42歳の中国人・李と並んで眺めた光景がこの歌のきっかけというのです。

 

寺山は当時23歳で、三年間の入院生活を追え、生活のため電話番やポーカーディーラーの仕事についていました。二人は仕事の合間に横浜の海を見に行くのですが、その晩は霧が深くお互い黙って「べつべつの海」を眺めていたと述べ、その時に作った歌だと述べています。

 

「わたし」だけでなく、国籍が異なるもう一人の登場人物によって、「身を捨つるほどの祖国」にはこれからの日本の舵取りの憂いだけでなく、中国に残してきた家族への心配も含まれるようになるのです。

 

ただし寺山は自身の過去でさえも虚構化することから、この話も創作である可能性は否めません。

 

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の鑑賞

 

前半の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」という修辞は、まるで昭和映画のワンシーンのような叙情に充ちた風景です。マッチに火をともすのは、煙草を吸うためでしょうか。夜の波止場で、コートを着た若者が寂しげに佇む姿が目に浮かびます。

 

しかし、その後には、「身捨つるほどの祖国はありや」と反語表現を交えた切迫した問いかけがあり、読み手の心を激しく揺さぶります。

 

一瞬のマッチの灯火に浮かび上がる、霧に閉ざされた夜の海。この暗い情景は、当時の社会に広がり始めた漠然とした虚しさや不安を象徴しています。

 

そんな時代において、「殉死した父のようには生きられない」とよるべない不安を抱えていたのでしょう。祖国だけでなく、自身の命を捧げてまでも信じられるほどのものは何もないんだという、若者の孤独を浮き彫りにしています。

 

たった三十一文字の言葉で、手元のマッチから眼前の海へと広がる視線の動きや、作者の孤独や祖国への諦観などを表現した、まさに「言葉の錬金術師」と称された寺山を代表する名歌です。

 

作者「寺山修司」を簡単にご紹介!

(三沢市にある寺山修司記念館 出典:Wikipedia

 

寺山修司(1935年~1983年)は、戦後の日本を駆け抜けた歌人であり、「昭和の啄木」「言葉の錬金術師」などの異名で活躍した人物です。

 

警察官の父・八郎と母・ハツの長男として生まれ、少年時代は青森県で過ごしています。しかし父は出兵先のセレベス島で戦病死しており、このことは彼の詠む短歌にも大きな影響を及ぼしました。

 

友人であった京武久美の影響により中学の頃から俳句や詩を作りはじめます。1954年『短歌研究』に掲載された中城ふみ子の「乳房喪失」に感銘を受け、本格的に詩作に励むようなり、「第2回作品五十首募集」では「チェホフ祭」で新人賞を受賞しました。

 

青春時代の心情を大らかに歌い上げ、18歳にして華々しい歌壇デビューを飾りましたが、翌年ネフローゼ症候群のため長期入院を余儀なくされます。しかし療養中も積極的に詩作を続け、第一作品集『われに五月を』を刊行しました。

 

1958年『空には本』、1962年『血と麦』、1965年『田園に死す』の三冊の歌集を刊行していますが、寺山が精力的に短歌を作り続けた期間は短く、デビューから10年あまりに過ぎませんでした。

 

その後は表現の場を映画、作詞、演劇、写真など、あらゆる分野に広げていき、生涯で膨大な量の文芸作品を発表しています。中でも演劇には情熱を傾け、「天井棧敷」を主宰し国際的にも大きな反響を呼びました。

 

「寺山修司」のそのほかの作品

(寺山の墓 出典:Wikipedia)