五・七・五・七・七の合計三十一文字からなる短形詩「短歌」。
歌人の瑞々しい感性が限られた文字数で生き生きと表現されます。調子よく口ずさみやすいところや、短く手軽なことなどから愛好する人も多くいる文芸です。
有名な歌人の作品は文学性にも優れ、これらを知っておくことは心豊かに生きることにもつながります。
今回は、明治期の歌人・正岡子規の歌から「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」という歌をご紹介します。
鳶尾草(いちはつ)。一初、一八。夏の季語。
いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす 子規
Wall iris, Roof iris (Iris tectorum) #flowers #fleurs #plants pic.twitter.com/zABVK4LgcE— cloudsailor / 星羅 (@sjyszm) April 19, 2016
本記事では、「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」の意味や表現技法・句切れ・作者などについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」の詳細を解説!
いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす
(読み方:いちはつの はなさきいでて わがめには ことしばかりの はるゆかんとす)
作者と出典
この歌の作者は「正岡子規」です。江戸から明治へと時代が変わるときに、短歌の革新運動を進めた人物です。
この歌の出典は『竹乃里歌』。
竹乃里歌は明治37年(1904)刊。正岡子規の死後にまとめられた遺稿集です。子規が生前主宰していた歌会に参加していた伊藤左千夫らが中心となって出版されました。
この歌は、明治34年(1901)の作です。正岡子規はその翌年の秋に亡くなりました。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「いちはつの花が美しく咲き出しているのが見えるが、私の目には人生最後の春が去ろうとしているように映ることだ。」
という意味になります。
いちはつとは、アヤメの仲間の植物です。剣のような葉の中からすらりとまっすぐな茎をのばし、濃い紫の花を咲かせます。
花の咲く時期は5月で、初夏に咲くアヤメの仲間の中では最も早く開花するといわれます。「いちはやく」咲くことから、「いちはつ」と呼ばれるといいます。
文法と語の解説
- 「いちはつの」
「いちはつ」はアヤメ科の花の名前です「の」は、連体修飾格の格助詞です。
- 「花咲きいでて」
「咲きいでて」は、動詞「咲きいづ」の連用形「咲きいで」+接続助詞「て」です。
- 「我目には」
我目とは「わがめには」と読みます。「には」は格助詞「に」+係助詞「は」です。「には」で、他と区別して特に一つを取り出して強調する意味となります。「他の人はそうでもなにが、私の目には」と、残された時間の少ない自らを見つめている言葉です。
- 「今年ばかりの」
「ばかり」は限定を表す副助詞です。「今年を最後として、人生の最後の」と言う意味です。
- 「春行かんとす」
「行かんとす」は、動詞「行く」の未然形「行か」+推量・婉曲の助動詞「む」終止形+格助詞「と」+動詞「す」終止形で、「行こうとしている、去ろうとしている」という意味です。
「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」の句切れと表現技法
句切れ
この歌に句切れはありませんので「句切れなし」となります。
自らに残された余命はいくばくかと、祈るような調子て詠みあげられた一首です。
表現技法
この句には表現技法として特に目立つような技法は用いられていません。
「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」が詠まれた背景
正岡子規の文学と子規を死に至らしめた病は、切り離して考えることはできません。
子規は明治22年(1889、22歳の時に大量に喀血し、結核の診断が下されます。当時、結核は死に至る不治の病とされていました。この時から子規は、自らの死とも向き合うことを余儀なくされます。
雅号「子規」を名乗り始めたものもこのころです。子規というのは、ホトトギスと言う鳥の異名で、ホトトギスはのどから血を流しながら鳴くといわれていました。喀血する自らとホトトギスを重ね合わせた雅号です。
そして、明治28年(1895)、28歳の時に子規は新聞「日本」紙の従軍記者として、清(現在の中国)に渡りますが、その帰途に大量吐血、一時は危篤に陥りました。持ち直したものの、その後長い療養生活に入ります。
このころ、子規は腰に痛みを感じるようになります。実は、結核菌が子規の脊髄にはいりこんで病変をひきおこす脊椎カリエスという病気になってしまっていたのです。まず歩けなくなり、そして座っていることもできなくなり、この歌を詠んだころには、寝たきりの生活となっていました。
それでもなお、創作意欲はうせることなく、口述を交えながら短歌や俳句を詠み、新聞に連載記事を書き、高浜虚子・河東碧梧桐・伊藤佐千夫ら門人と句会や歌会を催して文学論を戦わせました。
病臥する子規にとって、病室からの眺めが現実に目にすることのできる世界のすべてでした。病室からのぞむ庭の草花を愛し、家人が病室に生けてくれる花をめでて、短歌や俳句を詠み続けました。
子規の目にしたいちはつの花も、子規の目には格別なものに映っていたのです。
「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」の鑑賞
作者は、いちはつの花が咲き出したのを見つけて、しみじみとした思いを抱いています。
いちはつは、長い茎をすらりとのばし、その一番上に尖ったつぼみをつけ、鮮やかな紫色の大きな花を咲かせます。葉の緑色と花の紫色の対比も鮮やかな、パッと目立つ花です。
色鮮やかな、すっと伸びた草姿の花は、生命力にあふれたものとして作者の目には映ったことでしょう。
命のエネルギーにあふれたいちはつの花に対して、作者自身は遠からず訪れる死と隣り合わせにようやっと命ながらえている状態なのです。
いちはつの花が咲き始めたことで、作者は夏の訪れを感じています。いちはつは、夏のはじめに咲くアヤメ科の植物の中でも最も早く咲く花なのです。
「春から夏へ、また一つ季節を数えることができた」「今年の夏もいちはつの花を目にすることができた」そうした喜びと、そして去っていく春を1年後にはもう再び見ることはあるまいという悲しみがあります。
春夏秋冬、四季の移り変わりを愛し、俳句や短歌を詠んできた子規が、自分にとって最後の春に敬意をもって挨拶をしている、そんな風にも読みとれます。
自らの病、死から目をそらすことなく、痛烈に向き合いながら文学の道を歩んだ正岡子規の生きざまがあらわれている歌です。
作者「正岡子規」を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は明治時代に活躍し、若くして亡くなった歌人・俳人にして研究者でもあります。
松山藩士の家の子として、1867年(慶応3年)に生まれました。松山藩は現在の愛媛県松山市です。本名は常規(つねのり)です。
同郷に、河東碧梧桐や高浜虚子といった俳人がおり、この二人は正岡子規の双璧と呼ばれる高弟です。子規は、江戸の文学にも造詣が深く、俳句の革新運動に力を入れていました。
明治31年(1898年)「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」紙に連載開始、短歌の革新運動も始めます。伊藤佐千夫や長塚節らが正岡子規に師事しました。
20代のころにはすでに結核に罹患し、喀血や結核菌による脊椎カリエスの痛みと闘いながら文学の道を究めようとしました。
短歌の活動を始めたのはすでに子規の晩年と言える頃でしたが、優れた歌論は後世にも大きな影響を与えました。
そして、明治35年(1902年)享年34歳の若さで死去しました。
「正岡子規」のそのほかの作品
(子規が晩年の1900年に描いた自画像 出典:Wikipedia)
- くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
- 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
- 松の葉の 葉毎に結ぶ白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く
- ガラス戸の外のつきよをながむれどランプのかげのうつりて見えず
- 久方のアメリカ人びとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
- 若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如くものはあらじ