【ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し】徹底解説‼意味や表現技法・句切れ・鑑賞など

 

古典文学の時代から日本に伝わる詩のひとつに短歌があります。

 

五・七・五・七・七の三十一文字で自然の美しい情景を詠んだり、繊細な歌人の心の内をうたい上げます。

 

今回は、「言葉の錬金術師」の異名をもち、短歌だけにとどまらず俳句・詩・シナリオと表現世界を広げていった、寺山修司の歌「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し」をご紹介します。

 

 

本記事では、ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦しの意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し」の詳細を解説!

 

ふるさとの 訛りなくせし 友といて モカ珈琲は かくまで苦し

(読み方:ふるさとの なまりなくせし ともといて もかこーひーは かくまでにがし)

 

作者と出典

この歌の作者は「寺山修司(てらやましゅうじ)」です。

 

高校時代には俳句を作り始め、大学時代に短歌、その後は詩、シナリオなど多彩な活躍を見せた人物です。

 

 

この歌の出典は『空には本を』です。

 

昭和33(1958)刊。寺山修司の第一歌集として刊行されたものです。この歌は、昭和30年ころの作です。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると…

 

「ふるさとの訛りのなくなった友といて、モカコーヒーを飲むとこんなにも苦い」

 

という意味になります。

 

この歌は、作者の寺山修司が大学入学のために上京した時に詠まれました。

 

上京して間もなく訛りを話さなくなった友と生涯独特のイントネーションで話した寺山では、訛りに対する思いが違っています。

 

また、単に「珈琲」ではなく「モカ珈琲」としたところに、都会になじもうと背伸びする姿もうかがえます。

 

訛りをなくして肩ひじ張って生きる友と気取ってモカ珈琲を飲む自分が重なって見えて、その切なさと珈琲の苦さが重なり合った歌です。

 

文法と語の解説

  • 「ふるさとの」

作者である寺山修司の「ふるさと」は青森県です。父親は早くに亡くなり、母親と二人で生活し、親戚に預けられていた時期もあります。中学や高校では、俳句や短歌を友と一緒に作っています。あるインタビューで青森について聞かれた際、ロケなどで行くと新しい青森を発見する楽しみがある、と述べています。

 

  • 「訛りなくせし」

この時代は、訛りがあることで人生や地位が変わることもあるほど影響があります。「なくせし」は、動詞「なくす()」の未然形+過去を表す助動詞「き」の連体形「し」。「訛りがなくなった」という意味です。

 

  • 「友といて」

同郷の友と東京で会ったと「いて」は動詞「いる」の連用形です。

 

  • 「モカ珈琲は」

「モカ珈琲」はコーヒーの種類で、フルーツのような甘酸っぱい香り、まろやかな酸味とコクがあります。

 

  • 「かくまで苦し」

「かくまで」は「こんなにも」という意味です。「苦し」は、形容詞「苦い」の文語で終止形。コーヒーが苦いという舌に快くない味ということを表しているとともに、友の標準語や自分の気取っている自分に対する心情が「苦い」、不愉快である、つらいという意味も含んで詠んだ歌です。

 

「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し」の句切れと表現技法

句切れ

この歌に句切れはありませんので、「句切れなし」です。

 

喫茶店で同郷の友と話しながらコーヒーを飲む様子を素直に詠んだ一首です。

 

表現技法

表現技法として目立つような技法は用いられていません。

 

しかし、ふるさとの訛りとモカ珈琲が田舎と都会の対比になっています。

 

「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し」が詠まれた背景

 

寺山修司は、昭和29(1954)、早稲田大学教育学部国語国文学科に入学します。

 

中条ふみ子の短歌に刺激され、短歌研究新人賞に応募、その中から数十首が特選として発表されます。しかし、自身の俳句を短歌にアレンジしたことや他者の俳句の影響が顕著だったことなどで、歌壇から非難を浴びます。

 

昭和30(1955)ネフローゼという病を発病し入院生活を余儀なくされます。同じころ、大学を中退します。

 

ネフローゼ症候群:尿に蛋白がたくさん出てしまうために、血液中の蛋白が減り(低蛋白血症)、その結果、むくみ(浮腫)が起こる疾患のこと。

(引用:東京女子医科大学 腎臓内科

 

この歌は、入院生活の中で生まれたたくさんの作品の一つです。

 

「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し」の鑑賞

 

この歌は、同郷の友と喫茶店でコーヒーを飲みながら話をしたことを飾らずに詠んだ歌です。

 

初句の「ふるさとの」は、作者にとっては青森県ですが、読者それぞれが自分のふるさとを思い描く余地を残しています。

 

そして「訛りなくせし友といて」と言葉が続きます。

 

東京と青森の言葉の違いに、苦労していたのかもしれません。同郷の友に会ったにもかかわらず、その友は東京の言葉を話しています。

 

東京の人のようにふるまう友と東京という都会にいる自分を重ねて、「モカ珈琲」という背伸びして気取った飲み物を選んだのでしょう。

 

ただ、気取ってモカ珈琲を飲んではいるものの、その味は友や自分に対する心情と相まって思っていたより苦かったという、素直な歌です。

 

上京を経験した人は大いに共感できるのではないでしょうか。

 

この歌は、中学校や高校の国語の教科書に取り上げられたこともあります。各地方に方言があることやコーヒーが苦いことは、子供でも理解でき、わかりやすい歌であったはずです。

 

卒業後に上京して、ふとこの一首が浮かぶ経験をする子も出てくるかもしれません。

 

作者「寺山修司」を簡単にご紹介!

(三沢市にある寺山修司記念館 出典:Wikipedia

 

寺山修司は、昭和の中ごろから歌人、詩人、シナリオライター、映画監督など多彩な方面で活躍した人物です。生年は1935(昭和10)で、警察官の父、寺山八郎と妻のハツの長男として生まれました。

 

幼少のころはマンガやイラストを描き、少年期には友人と俳句の雑誌を作るなど、積極的に表現活動に取り組んでいました。

 

多方面で才能を発揮しましたが、青年期にはネフローゼで長く入院生活を送ることになります。その入院中に作品集や歌集を発表します。

 

「俳句や短歌は一人で取り組むもの、みんなで一つの作品を作り上げることに魅力を感じるようになった」とのちに語っているように、退院後はシナリオを描いたり映画を撮ったりするようになります。

 

晩年は、肝硬変に苦しみながらも映画撮影や執筆を行い、昭和58(1983)享年47歳という若さで死去しました。

 

「寺山修司」のそのほかの作品

(寺山の墓 出典:Wikipedia)

 

  • 森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし
  • 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
  • マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
  • 君が歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えんとする
  • 売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき