今でも身近な存在として幅広い年齢層の方に親しまれている「短歌」。
今回は、そんな短歌の歴史について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
短歌とは?特徴について
短歌とは、和歌の形式のひとつで5・7・5・7・7の31音からなる短い詩のことを言います。
合計31文字であることから「みそひともじ」とも呼ばれることがあります。
5・7・5の17音で構成されている俳句には、季節を表す言葉である季語を使うことがルールとされていますが、短歌は季語を必要としません。
また、第1句から第3句(5・7・5)までを上(かみ)の句、第4句から第5句を下(しも)の句と言います。
短歌は、恋心や景色を言葉で表現したりして作者の心情を描いたり、抒情的な作品が多いことが特徴です。
また、短歌の数え方は、俳句のように一句、二句…と数えるのではなく、一首、二首…と数えていきます。
短歌の歴史を簡単にわかりやすく解説!
①短歌の起源
(元暦校本万葉集 出典:Wikipedia)
短歌の始まりは遠い昔、飛鳥時代にまで遡ります。
代表的な歌集としては「記紀歌謡」という歌集と、7世紀後半ごろから8世紀後半ごろにかけて編まれた「万葉集」があります。
「万葉集」は全20巻で構成され、約4500首が収められている日本最古の歌集だと言われています。
宴や旅行のときに詠んだ歌である「雑歌(ぞうか)」、恋の歌の「相問歌」、そして「挽歌(ばんか)」と呼ばれる人の死に関する歌の3つのジャンルに分かれており、天皇や貴族など身分の高い人々から、下級官人や農民など様々な人が詠んだ歌が収められています。
「万葉集」に収められているのは短歌だけではなく、長歌や旋頭歌(せどうか)と呼ばれる歌もあります。
長歌は和歌の形式のひとつで、5音と7音を何度か繰り返したのち、7音・7音で結ぶもので、旋頭歌は5音・7音・5音を2回繰り返した6句からなり、上の句と下の句で読み手が変わる、といった形式の和歌です。
「万葉集」を編集したのは誰なのか分かっていませんが、後年の研究では、大伴家持という人物が関わっていた可能性が大きいと言われています。
②中世の短歌
(源氏物語画帖 出典:Wikipedia)
短歌は、長く貴族のたしなみとして詠まれており、平安時代には男女の恋のやりとりとして詠まれたり、書簡にしたためられたりすることが多くありました。
紫式部の書いた「源氏物語」や、清少納言の「枕草子」の中にも、短歌を詠んだり意中の人に歌を送ったりする様子が書かれています。
この時代、短歌は大きく「和歌」として扱われていたようです。
短歌の歴史の中で、なんといっても外せないのが「百人一首」でしょう。
現在、「百人一首」と言えば、一般的に、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が編纂した「小倉百人一首」のことを指します。
飛鳥時代から鎌倉時代にかけて、100人の歌人の詠んだ優れ和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためたというのが始まりです。
現在でも古典の入門として学校の教材に使われたり、かるたとしてお正月などに楽しまれたりしています。
また、最近では競技かるたと呼ばれる、百人一首を使った競技もブームになっていますね。
やがて貴族社会が終わり、武士が力を持つようになるにつれて、短歌は次第に詠まれなくなっていってしまいます。
室町時代になると連歌や俳句が流行し、ますます短歌の存在は影をひそめてしまうのです。
(※連歌とは、2人以上の人が上の句と下の句を互いに詠みあって、そのやりとりをどんどん続けていく…と言った遊びのこと)
江戸時代には、松尾芭蕉や与謝蕪村など、優れた俳諧(俳句は当時、俳諧と呼ばれていました)を詠む俳諧師が登場します。
それでは、江戸時代には短歌はどのように扱われていたのでしょうか?
実は、江戸時代には「狂歌」というものが流行します。
これは社会風刺や皮肉、滑稽な様子を盛り込んだ短歌のことであり、この狂歌は庶民の間で大流行することになりました。
多くの優れた狂歌師が活躍したという記録が残っています。
③近代の短歌
明治時代初期からは、それまでの風雅で格式高い短歌のイメージよりも、自由と個性を求める近代短歌という新しいジャンルが開拓されました。
明治40年代には与謝野鉄幹が歌誌「明星」を創刊し、与謝野晶子や北原白秋、若山牧水、石川啄木など、名だたる歌人たちがその才能を開花させました。
昭和初期にはプロレタリア文学に影響されたプロレタリア短歌の運動がおこります。
プロレタリア文学とは、1920年代~1930年代前半にかけて流行した文学で、虐げられた労働者たちがおかれた厳しい現実を描いたものです。
この頃、歌壇の世界で大きく活躍したのが「アララギ」という歌誌で、ここからたくさんの若い歌人らが育っていくことになります。
④戦後から現代の短歌
終戦後、昭和30年代に入ると前衛短歌運動がおこりました。
この前衛短歌とは、現在詠まれている短歌の草分け的存在だと言われています。
その後、昭和60年代に俵真智が「サラダ記念日」を刊行し、この本がミリオンセラーとなります。
それまで短歌には、堅いイメージや文学的要素が強いイメージがもたれていましたが、「サラダ記念日」がきっかけとなり、まるで広告のキャッチコピーのような親しみやすいものへと変化していったのです。
現在ではインターネット上で自分の詠んだ短歌を発表する人が増えたり、テレビ番組が短歌を取り上げた番組を放送したりと、短歌を気軽に楽しめる機会が増えています。
2010年代からは社会問題を背景とした短歌が多く詠まれるようになり、2018年に刊行された荻原慎一郎の「歌集 滑走路」は、「サラダ記念日」以来のベストセラーとなり、日本国内だけでなく海外でも高い評価を受けています。
有名な歴史上の人物と有名句を紹介!
ここからは、短歌の歴史を語る上で欠かせない歴史上の人物たちと、彼らが詠んだ有名な短歌を紹介していきます。
①「万葉集」より
【作者】大津皇子
『 あしびきの山のしずくに妹待つと吾が立ち濡れぬ山のしずくに 』
現代語訳…あなたを待っている間、私は山のしずくに立ち濡れてしまったことだよ、その山のしずくに
大津皇子が恋人の石川郎女に送ったとされる一首です。当時、夫婦や恋人であっても男女は別居していて、男性が女性の家を訪ねていくという習わしがありました。“妹”とはきょうだい関係にあるというわけではなく、恋人や愛しい人のことをこう呼びました。また、“吾”とは、私、という意味です。
大津皇子は飛鳥時代の皇族で、天武天皇の孫です。24歳の時、親友の裏切りで謀反の疑いをかけられて、自害しています。その薄幸な運命からでしょうか、大津皇子の詠んだ愛の歌は、長く愛されているようです。
【作者】柿本人麻呂
『 東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 』
現代語訳…東の野に陽炎(かげろう)が立つのが見えて振り返ってみると、月は西に傾いてしまった
この歌は長歌の後に詠まれた4首の短歌のうちのひとつで、人麻呂の代表的作品と言われています。当時の天皇の世代交代を詠んだ歌だと言われており、東に浮かんでいる陽炎は新しく即位した天皇を、そして西に傾いた月は、今は亡き前天皇のことを表しています。
柿本人麻呂は飛鳥時代の歌人で、歌聖と呼ばれるほどの高名な人物です。和歌の名人を表す三十六歌仙のひとりにも選ばれており、和歌が上達するようにということから、人麻呂を神様として祀る神社も各地に建てられています。中でも、兵庫県明石市にある柿本神社が有名です。
②「百人一首」より
【作者】小野小町
『 花の色はうつりにけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに 』
現代語訳…桜の花の色は、春の雨が降っている間に色あせてしまった。ちょうど私の美貌が、恋に悩むうちに衰えてしまったように
古典では、花とだけ書かれている場合は桜の花のことを指します。
小野小町は、平安初期の女流歌人として最も有名な人物で、柿本人麻呂と同じく三十六歌仙の1人に、また・・・とされる六歌仙の1人でもあります。彼女は絶世の美女だと言われており、数々の伝説を残しています。
【作者】在原業平
『 ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは 』
現代語訳…竜田川の一面に紅葉が浮いて、水面が紅色に絞り染めしたようになっている。様々な不思議なことが起こっていたという神代の昔でさえ、こんなことは聞いたことがない
神代とは、太古の神々の時代という意味です。
在原業平は平城天皇の孫で、皇族としてではなく臣下として朝廷に仕えました。中将という位にまで出世し、「在中将」などと呼ばれました。小野小町と同じく六歌仙の1人で、「伊勢物語」の主人公のモデルになったと言われています。また、大変な美男子だったそうで、英雄伝も残っています。
③近代の代表的な短歌
【作者】与謝野晶子
『 みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす 』
現代語訳…みだれ髪を綺麗に結いなおして朝寝するあなたを揺り起こす
島田、というのは当時の女性の髪形のひとつで、島田髷とも言い、未婚の女性や花柳界の女性がしていた髪形のことです。この短歌は、与謝野晶子の初めての歌集『みだれ髪』に掲載されている、彼女の代表的な一首です。
与謝野晶子は大阪の和菓子屋の娘として生まれましたが、20歳の時から歌誌『明星』に短歌の投稿を始めました。やがて、明治を代表する歌人の1人として活躍していきます。彼女は、とても情熱的な恋の歌を詠むことで注目されていました。
『明星』を刊行した与謝野鉄幹には家庭がありましたが、晶子は鉄幹と大恋愛をし、のちに2人は結婚をしています。当時、女性が自分の恋心をあけすけに表現するということは賛否両論を呼んだようですが、晶子は世間の声に負けることなく、自分の激しい情熱を歌にして発表を続けます。
また、短歌ではありませんが、与謝野晶子の代表作としては他に、「君死にたまふことなかれ」という詩があります。教科書などで目にした方も多いかも知れませんね。
【作者】石川啄木
『 たわむれに母を背負いてそのあまり軽き(かろき)に泣きて3歩歩まず 』
現代語訳…たわむれに母を背負って、そのあまりの軽さに涙が出てきて、3歩もあるけないでいる
石川啄木の歌集『一握の砂』の中でも、最も代表的な一首です。
石川啄木は岩手県に生まれ、子どもの頃から『明星』の愛読者でした。プロの文学家になるべく与謝野晶子・鉄幹夫妻の元を訪ねますが、この時に結核を患ってしまい、一度故郷に戻ることになります。その後、19歳の時に『あこがれ』という作品でデビューすると、またたくまに天才詩人として栄光を浴びることになります。
その後、幼馴染であった女性を結婚をしますが、啄木の書いた作品はなかなか評価をされず、苦労の連続で、特に貧困に苦しんでいました。1910年には歌集『一握の砂』が出版されますが、その翌年にわずか26歳という若さで亡くなってしまいます。
本来、短歌を活字で書くときには、句読点を入れずに一行で書くということが一般的ですが、啄木は自身の詠んだ短歌を三行にして書いていたそうです。これは活気的な表現技法だとして、“三行書き”と言われています。
まとめ
✔ 短歌は飛鳥時代から、身分を問わず色々な人に詠まれていた。
✔ 平安時代には、短歌は貴族のたしなみとして社会に浸透していた。
✔ 中世になると短歌はあまり詠まれなくなった。
✔ 近代では、近代短歌という新しいジャンルが成立する。
✔ 現在はインターネット上で発表したり、社会的なテーマを含んだ短歌が詠まれるようになった。
遠い昔から日本を代表する文学として親しまれてきた短歌ですが、現在もなお、時代の移り変わりとともに少しずつ形を変えながら、日本語の美しさや日本人の心を伝えてくれる大切な文化のひとつです。