【人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

五・七・五・七・七のしらべで、花鳥風月や人の心の機微を詠みこむ「短歌」。

 

古代からの日本の文学の中でも大きな流れを持つ詩です。平安時代、和歌は「やまとうた」ともよばれていました。

 

天皇の命令で和歌集が編纂されるようになったのも平安時代。天皇の命令で国家事業として編纂される歌集を勅撰和歌集といいます。

 

今回は日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』の中から「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」という歌をご紹介します。

 


 

本記事では、「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」の詳細を解説!

 

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける

(読み方:ひとはいさ こころもしらず ふるさとは はなぞむかしの かににほひける)

 

作者と出典

この歌の作者は「紀貫之(きのつらゆき)」です。平安時代初期の歌人です。

 

 (百人一首より「紀貫之」 出典:Wikipedia)

 

この歌の出典は『古今和歌集』(巻一・春歌上 42)、『小倉百人一首』(35です。

 

『古今和歌集』は、醍醐天皇の命によってつくられた、日本で最初の勅撰和歌集です。

(※勅撰和歌集とは、天皇の命令によって作られる歌集のこと)

 

この歌の作者、紀貫之は、『古今和歌集』の撰者のひとりでもありました。勅撰和歌集は、国家事業として編集されるわけですから、その歌集の撰者になった紀貫之という人は、この時代の歌人の第一人者だったといえます。

 

また、『小倉百人一首』は、鎌倉時代初期の成立です。鎌倉幕府の御家人、宇都宮蓮生が、別荘のふすまの装飾のために藤原定家に色紙の作成を依頼しました。求めに応じた藤原定家は、古代から当代までの優れた歌人の歌を百首選んで色紙にしました。宇都宮蓮生の別荘が、京都・嵯峨野の小倉山荘だったので、『小倉百人一首』と呼ばれています。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「人の心は、どう変わってしまうものだかわからないものだが、昔なじみの場所で、梅の花は昔と同じ香りをさせて花開いていることよ。」

 

となります。

 

文法と語の解説

  • 「ひとはいさ心も知らず」

「は」は、主格の格助詞です。

「いさ」は感動詞で、後ろに打消しの言葉を伴って、「さあ、…ない」という意味を作ります。「いさ心も知らず」で、「さあ、心はどう変わってしまうかわからない」ということです。

 

  • 「ふるさとは」

「ふるさと」は、故郷という意味ではなく、「昔なじみの場所」というくらいの意味です。

 

  • 「花ぞ昔の香ににほひける」

「ぞ」は、係助詞で、係り結びを作ります。

係り結びとは、「ぞ・なむ・や・か」の係助詞が出てくると、文末が終止形ではなく、連体形や已然形に変わるというものです。標準的な現代語には消滅してしまった、古語に特有のルールです。疑問の意味や、文意を強調する働きがあります。

 

「花ぞ…にほひける」で係り結びになっています。「にほひける」は、動詞「にほふ」連用形「にほひ」+詠嘆の助動詞「けり」の連体形「ける」です。係助詞「ぞ」があるために、文末が連体形になるのです。

 

人と違って花は心変わりしない、ということを強調しています。

 

「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中の意味の切れ目のことを指します。読むときも少し間をあけてよみます。普通の文でいえば、句点「。」がつくところで切れます。

 

この歌は二句目「人はいさ心は知らず」で一旦意味が切れますので、「二句切れ」の歌です。

 

対比

対比とは、二つの似ているもの、または対立するもの並べて、共通点または相違点を比べ、それぞれの持つ特性をより強調する技法です。

 

この歌では、「人の心」と「ふるさとの花」が対比されています。

 

「人の心は変わりやすいものだが、花の香りは昔と変わることはない」と人と花の違いを対比させています。相手の心変わりを、変わることのない花と比べて指摘しているのです。

 

「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」が詠まれた背景


 

この歌は『古今和歌集』巻一・春歌上にある歌ですが、次のような詞書がついています。

 

(※詞書(ことばがき)・・・その歌を作った日時・場所・背景などを述べた前書きのこと)

 

「初瀬(はつせ)に詣(もう)づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程(ほど)へて後(のち)にいたれりければ、かの家の主人(あるじ)、かく定かになむ宿りは在る、と言ひ出して侍(はべ)りければ、そこに立てりける梅の花を折りて詠める」

(現代語訳:初瀬にある長谷寺にお参りするたびに、宿を借りていた人の家に、長いこと訪ねることなかった後に、久しぶりに訪ねていった。すると、その家のあるじが、「あなたはお心変わりされてしまったのかもしれませんが、うちはここにずっとこうしてありましたよ。」と言い出したので、そこにあった梅の花の枝を折り、詠んだ)

 

久しぶりに訪ねていった昔なじみの相手に、心変わりしたのであろうという皮肉を言われてしまい、「いやいや、心変わりをしたのはそちらではないですか」と歌で返した、ということです。

 

平安貴族にとって、ちょっとした挨拶なども、和歌を詠んで行うことが教養のある文化人の証でもありました。

 

相手の皮肉にさらりと歌を詠んでかえした紀貫之の機転と歌才が見て取れる歌です。

 

「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」の鑑賞

 

この歌は、変わりやすい人の心と、変わることのない花の香りの対比が鮮やかな、機知にあふれた一首です。

 

(※機知・・・その場に応じて、とっさに適切な応対や発言ができるような鋭い才知)

 

しみじみと人の心の移ろいやすさを嘆く歌ではなく、相手のあいさつに込められた皮肉をさらりとかわしてみせる、スマートで洗練された挨拶の歌です。

 

平安時代の貴族にとって、和歌を詠むことは教養として必須でした。生活のふとした場面のコミュニケーションの手段として、和歌を使いこなせることが貴族として求められていたのです。

 

この歌は、梅の香りのさわやかな印象を帯びつつ、軽やかに詠まれた貴族らしい歌となっています。

 

 作者「紀貫之」を簡単にご紹介!

 (紀貫之 出典:Wikipedia)

 

紀貫之(きのつらゆき)は平安時代初期から中期にかけて活躍した歌人です。貞観8年(866年)ころ生まれ、天慶8年(945年)亡くなったのではないかとされます。

 

日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』の撰者のひとりであり、「仮名序」とよばれる序文を書いた人物でもあります。歌人として、当代の第一人者であり、また、後世まで伝説的な歌人として伝えられ、称えられている人物です。

 

『古今和歌集』には、101首、その後の勅撰集にも数百種の歌が入集しており、これを超える歌人はいません。

 

和歌の他に、『土佐日記』の作者としても知られます。日本初の日記文学であるとされます。

 

紀貫之は、延長8年(930年)から承平4年(934年)土佐国(現在の高知県)の国司として、任国に下っていましたが、土佐から京都に帰ってくる旅の間の出来事を、書き手を女性に仮託してつづった散文です。

 

『土佐日記』は、後世の日記文学や物語文学にも大きな影響を与えました。

 

「紀貫之」のそのほかの作品

(裳立山の紀貫之の墓 出典:Wikipedia

 

  • 猫の舌の うすらに紅き 手ざはりの この悲しさを 知りそめにけり
  • 死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ 天に聞ゆる
  • ものの行 とどまらめやも 山峡の 杉のたいぼくの 寒さのひびき
  • 信濃路は あかつきのみち 車前草も 黄色になりて 霜がれにけり
  • うつせみの 吾が居たりけり 雪つもる あがたのまほら 冬のはての日