短歌は、思ったことや感じたことを5・7・5・7・7の31音で表現する定型詩です。
短い文字数の中で心情を表現するこの「短い詩」は、古代から1300年を経た現代でも多くの人々に親しまれています。
今回は、近現代短歌を語るには欠かせない歌人、「佐佐木幸綱」の一首「川が流れて俺が流れて流されて今日を区切りの花束浮かす」を紹介します。
「川が流れて俺が流れて 流されて今日を区切りの花束浮かす」 授業でならったこの詩?が頭から離れんぞよ
— へろ (@hrhrr08) September 20, 2013
佐佐木幸綱の流れ人というのは、川が流れて俺が流れて流されて~という歌でよいのかしら(調べてる)
しぶい・・!!!
— ひでろー@10/8夏凪瞳弥🎂 (@hidero_mashi) December 23, 2014
本記事では、「川が流れて俺が流れて流されて今日を区切りの花束浮かす」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「川が流れて俺が流れて流されて今日を区切りの花束浮かす」の詳細を解説!
川が流れて俺が流れて流されて今日を区切りの花束浮かす
(読み方:かわがながれて おれがながれて ながされて きょうをくぎりの はなたばうかす)
作者と出典
この歌の作者は「佐佐木幸綱(ささき ゆきつな)」です。
佐佐木幸綱は1938年(昭和13年)生まれの、日本を代表する歌人の一人です。現在、現代歌人協会の前理事長であり、短歌雑誌『心の花』主宰・編集長。早稲田大学の名誉教授でもあります。祖父は国学者で歌人の佐佐木信綱、また父の佐佐木治綱・母の由幾もともに歌人という家系に生まれ、自身の長男の佐佐木頼綱、次男の佐佐木定綱も歌人です。
また、この歌の出典は『夏の鏡』です。
夏の鏡は1976年(昭和51年)に青土社より刊行された、作者の第3歌集です。1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)頃まで、作者30代半ばの数年間の作歌が収録されています。
現代語訳と意味 (解釈)
この歌は現代語で詠まれた歌なので、意味はそのまま受け取ることができます。あえて噛み砕いて書き直すとすると、次のような内容になります。
「川が流れている。俺も(この川のように)流れている、流されている。(でも)それも今日で区切りをつけよう。と、川に花束を流す。」
といった内容になります。
文法と語の解説
- 「川が流れて」
「川」…絶えず水が流れる細長い地形。「河」よりも小さなイメージです。
「流れて」…能動的に流れているようすです。
- 「俺が流れて流されて」
「俺」…歌の主人公。口語調の一人称が歌のポップさとリアリティを生み出しています。
「流れて流されて」…能動的な「流れて」に対して、「流されて」は受動的です。
- 「今日を区切りの」
「今日を」…今日で、今日に、といった表現もできそうですが、格助詞「を」が新しい(流されない)日々の出発点・分離点を強く示しているように感じます。
「区切り」…物事の切れ目。きっちりと切られているイメージ。
- 「花束浮かす」
「花束」…これまでの日々や自分との「別れ」を想起させる象徴的なアイテムです。
「浮かす」…自分の意志をもって浮かせること。
「川が流れて俺が流れて流されて今日を区切りの花束浮かす」の句切れと表現技法
句切れ
この歌は「3句切れ」です。
初句から第3句までで、「川が流れている」ということと「俺も流れている、流されている」といった自分自身の状況を描いています。
第4句と結句では、そんな自分や日々に決別しようと「区切り」をつけるようすが描かれます。
字余り
初句が「5音」になるところを「7音」にしています。
この歌では初句以外はすべて定型(7・5・7・7音)になっていますので、初句の字余りがより一層際立って感じられます。
反復法
反復法とは、同じ言葉や、同じ句を何度も繰り返す技法のことです。
この歌では「流れて」「流されて」という言葉が繰り返し使われています。同じ言葉を繰り返すことによってリズムが生まれるとともに、歌自体を強く読者に印象づける効果を生み出していると言えます。
「川が流れて俺が流れて流されて今日を区切りの花束浮かす」が詠まれた背景
この歌が収録されている歌集『夏の鏡』が発行されたのは1967年の夏。作者が37歳のときです。作者は同年の春に結婚をしていますが、歌集に収められた歌の多くは結婚するより以前に詠まれたものだと考えられます。
歌が詠まれた背景について、作者本人が詳しく語ったことはありません。しかし、歌集にある他の歌や、これ以前・以降の歌集を見てみると、この歌は作者自身が感じた「実感」から生まれたのではないかと考えられます。
作者は37歳で結婚したと述べましたが、それ以前には、友人と酒を飲み交わす場面や、子をもつ友人とのやりとりを詠んだ歌がいくつも見られます。年齢的にも、自分よりも先に結婚・親になるといった知人が多くいたのではないでしょうか。
合わせて、30代半ばと言えば仕事も忙しい時期です。そんな中で、自分自身の「世間や時間の流れに身を任せる日々」に疑問を抱いていたのかもしれません。
何かきっかけがあったのかはわかりませんが、ふと「流されている自分、流れに身を任せているだけの自分と決別しよう」という思いが出てきたのかもしれません。
「川が流れて俺が流れて流されて今日を区切りの花束浮かす」の鑑賞
【川が流れて俺が流れて流されて今日を区切りの花束浮かす】は、世間や時間に流されている自分自身と決別しようという決意を詠んだ一首です。
水がただ自然に流れていく川の流れのように、「俺」も流れている…。「流れている」と言うと、自分の意志でそうしているように思えますが、主人公はここで言葉を変えます。実際は「流されて」いるのだと。
もちろん、川に流されているのではありません。周りの人や世間の常識、時間の流れなど、自分を取り巻く色々なものに流されているのです。
そうやって日々を過ごしてきたことに、「今日」で区切りをつけたい。流されてきた自分の代わりに一束の花を川に流して、自分は流されずに花束を見送ろう。
ただ何となく過ごしてきた日常の自分に対する、けじめの歌です。
作者「佐佐木幸綱」を簡単にご紹介!
佐佐木幸綱は歌人であり、国文学者。1938年(昭和13年)に東京で生まれました。
祖父は国学者で歌人の佐佐木信綱、父は歌人の佐佐木治綱、母の由幾も歌人という代々歌人・国学者の家系に育ちましたが、中学・高校時代はバスケットボールやラグビーに熱中するスポーツ少年でした。
その後、早稲田大学第一文学部に入学。在学中に父が突然亡くなり、それをきっかけに「自らの内なる『短歌』」を発見し作歌を本格的に始めたそうです。祖父の創刊した『心の花』に参加(現在は幸綱本人が編集長)。在学中に現代短歌シンポジウムに提出した作品「俺の子供が欲しいなんていってたくせに! 馬鹿野郎!」が注目され、新進歌人の一人に数えられるようになりました。
早稲田大学第一文学部国文科を卒業し、同大学大学院修士課程に入学。修了後は、河出書房新社に入社しましたが、3年後に『文芸』の編集長を務めたことを最後に退社しました。
1971年、第1歌集『群黎』にて第15回現代歌人協会賞受賞。その後も、『金色の獅子』で第5回詩歌文学館賞、『瀧の時間』で第28回迢空賞、『旅人』で第2回若山牧水賞、『呑牛』で第10回斎藤茂吉短歌文学賞、『アニマ』『逆旅』で第50回芸術選奨文部大臣賞、『はじめての雪』で第4回山本健吉文学賞および第27回現代短歌大賞、歌集『ムーンウォーク』で第63回読売文学賞と、現代にいたるまで複数の賞に輝きました。
また、2002年には紫綬褒章を受章。2022年には旭日中綬章を受章しています。門下には俵万智、大口玲子など有名歌人が名を連ねています。
「佐佐木幸綱」のそのほかの作品
- 直立せよ一行の詩陽炎に揺れつつまさに大地さわげる
- サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず
- 言葉とは断念のためにあるものを月下の水のきらら否定詞
- 俺らしくないなないないとポストまで小さき息子を片手に抱いて
- のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ