鎌倉時代初期、藤原家隆という天才歌人がいました。
詩的センスと技巧に優れた彼の和歌は現代では難解と言われることもありますが、一つ一つの表現を丁寧に見ることで描かれた情景の美しさに感動させられるものばかりです。
今回はそんな藤原家隆の和歌「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より凍りていづる有明の月」を紹介します。
志賀の浦や遠ざかりゆく波間より氷りて出づる有明の月 ⊂( ੭ु⁾⁾。・。)੭ु⁾⁾ さむいよ
— はる⛅かも (@matricaria_pole) November 28, 2013
本記事では「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より凍りていづる有明の月」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底し、鑑賞していきます。
目次
「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より凍りていづる有明の月」の詳細を解説!
志賀の浦や遠ざかりゆく波間より凍りていづる有明の月
(読み方:しがのうらや とおざかりゆく なみまより こおりていずる ありあけのつき)
作者と出典
(菊池容斎・画、明治時代 出典:Wikipedia)
この歌の作者は「藤原家隆(ふじわらの いえたか)」です。
平安末期から鎌倉前期を生きた歌人で「新古今和歌集」の撰者の一人です。上品で優雅な印象の和歌が多く、「幽玄」という味わい深い情緒を感じさせる歌作りが得意とされています。和歌作りのテクニックにも優れていて、当時の代表的歌人の藤原定家と並び称される有名歌人でした。
また、この歌の出典は「新古今和歌集」です。
「新古今集」とも呼ばれる鎌倉前期にできあがった勅撰和歌集です。後鳥羽上皇の命を受けて藤原定家、藤原家隆など当時を代表する歌人たちが4年をかけてまとめ上げました。鎌倉前期に流行していた幽玄な和歌、妖艶な印象の和歌が多く選ばれています。また、有名和歌の一部を引用した「本歌取り」という技巧を用いた歌や、三句切れ、体言止めの歌が多いことも特徴です。
現代語訳と意味
この歌の現代語訳は下記のようになります。
「志賀の浦よ。遠ざかっていく波間から凍てついた姿を現す有明の月よ。」
「志賀の浦」とは琵琶湖の西岸のこと、「有明の月」とは夜半に上って夜明けまで残る月のことです。「遠ざかりゆく波間」とは、冬の琵琶湖が真夜中に岸から凍っていき、岸から見た時に波立ちが遠くなっていく様子を表現しています。
凍りゆく湖から氷のような月が姿を見せるという厳冬の情景を歌ったもので、黒い夜空と青白い氷の色が想像され、神秘的な印象もあります。
文法と語の解説
- 志賀の浦や
「志賀」は琵琶湖南西の岸一帯の古称で「浦」は海や湖などの岸辺を指す言葉です。「や」は間投助詞で感動や詠嘆を表します。
- 遠ざかりゆく
遠ざかっていく、という意味です。「遠・離り・行く」と品詞分解でき、状態を表す「遠」、遠く隔たっていくという意味の「離る(さかる)」の連用形、進んで通過することを表す「行く(ゆく)」の連体形からなる言葉です。
- 波間より
「波間」は波と波の間、波の絶え間という意味です。「より」は「~から」という意味で動作が始まる起点を表す格助詞です。
- 凍りていづる
凍って出てくる、といった意味です。「凍り」は氷が張り渡って凍結する状態を表す「凍る」の連用形、「て」は接続助詞、「いづる」は中から外へ出て表面に現れることを表す「出づ」の連体形です。
- 有明の月
「有明」は「ありあけ」と読み、月がまだ空にあるままで夜が明けようとする頃を指します。その月のことを指しても有明と言います。「有明の月」とは夜更けに出て朝まで残る月のことで「更待月(ふけまちづき)」とも言い、陰暦で二十日過ぎた月を表します。満月を過ぎた月で下側半分以上が欠けた形をしています。
「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より凍りていづる有明の月」の句切れと表現方法
句切れ
この歌は「初句切れ」です。初句に感動を表す「や」があり、「志賀の浦よ。」と一旦文章が区切られています。
字余り
初句は基本は5音ですが、この歌の初句は「志賀の浦や」であり【6音】になっているため、字余りです。
体言止め
体言止めとは句を名詞や代名詞で終わらせる表現方法で、その言葉に読み手の注意を引きつけたり歌にメリハリをつけたりする効果があります。
この歌では第五句の「有明の月」が体言止めとなり、歌全体が引きしまった印象となっています。また、歌の最後で読み手を月に注目させて余韻を持たせる働きもしています。
本歌取り
本歌取りとは有名な和歌の一部を自分の歌に取り入れることで、自分の歌の世界に奥行きを持たせる歌作りの技法です。
この歌は、下記の歌から「遠ざかりゆく」という表現を引用しています。
【作者】快覚法師
「さ夜更くる ままにみぎは 凍るらむ 遠ざかりゆく 志賀の浦波」
意味:夜が更けると水際が凍るのだろう。志賀の波は遠ざかってゆく。
琵琶湖が凍って波が岸から遠くなっていく情景を詠んだ歌を本歌取りすることで、本歌を知っている人にその風景を連想させ、自分の歌につなげさせようという狙いがあります。
「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より凍りていづる有明の月」が詠まれた背景
この歌は当時の太政大臣が主催した歌会で「湖上の冬月」というテーマで歌を作りなさいという題が出された際に、作者の藤原家隆がその場で詠んだものです。
実際に琵琶湖を見ながら詠まれたものではありませんが、この歌には凍りゆく湖を前にして月が上がるのを見つめるような臨場感があります。
「志賀」は飛鳥時代の短い期間に都が置かれていた名所で、和歌にもよく登場する地名です。和歌の名手である家隆が過去に志賀を訪れていても不思議ではなく、冬の夜に凍る琵琶湖や真冬の月を目にしたことがあったかもしれません。
いずれにせよ「湖上の冬月」というテーマを聞いて家隆は琵琶湖を思い出したのでしょう。そして琵琶湖が凍って波が遠ざかるという既存の歌も思い出し引用して、テーマにもある月を足して和歌を完成させたのでしょう。
「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より凍りていづる有明の月」の鑑賞
「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より凍りていづる有明の月」は、湖の波や月さえも凍らせるような寒さ、痛い程の冷たさを感じさせる冬の歌です。
この歌は歌会で披露されたものです。歌会では口頭でゆっくりと歌を詠み上げますが、そう思ってこの歌を鑑賞してみましょう。
まず「志賀の浦や」で聞く人に「これは琵琶湖の歌だな。志賀の浦と5音でも良さそうなのに字余りにしたのは、何に感動しているのだろう」と思わせます。
次に「遠ざかりゆく波間より」。本歌取りされた元の歌を知っている人にはピンとくる表現で、湖が岸から凍って波音が遠く離れていく夜の風景が頭に浮かぶでしょう。しかし「波間より」とは?波間からなんだ?と興味が引かれます。
続いて「凍りていづる」で、凍りゆく波間から凍った何かが現れたことが分かります。出現したものは果たして、と聞き入る中で結びの「有明の月」が詠み上げられます。
体言止めの「有明の月」にはひと際冷たい印象があります。姿を現した月の存在感は大きく、凍った湖面を音を立てて破りながら月が出現したような光景を想像させて余韻を残します。家隆が月を登場させたのは「湖上の冬月」というテーマもあったのでしょうが、湖面の氷を青白い月光で照らして歌の冷たい印象を更に強くする狙いもあったのではないでしょうか。
厳冬の情景を表現した歌ですが、幻想的で美しく、厳かな印象もあります。歌の全体像が分かったところで初めの「志賀の浦や」に戻ってみましょう。歌を字余りにした一言の「や」には「志賀の浦よ、お前はこれ程までに冷たく美しいのだ」という家隆の感動が詰まっているように感じられます。
作者「藤原家隆」を簡単にご紹介!
(菊池容斎・画、明治時代 出典:Wikipedia)
藤原家隆(1158年~1237年)は鎌倉時代初期の公家で歌人です。当時の歌界の中心人物だった藤原俊成に和歌を教わり、生涯で6万首もの歌を詠んだとされています。
家隆は幽玄な叙情歌を得意としていました。幽玄とはひっそりとした静かな優美さのことで、一見すると気付きにくいけれど分かると味わい深い趣のことでもあります。幽玄は家隆の師藤原俊成が樹立した歌風です。
体言止めや本歌取りなどの歌作りのテクニックにも優れていた家隆は師匠の息子である藤原定家とともに歌界の有名人となり、後には後鳥羽上皇に和歌を教える先生にも推薦されます。藤原俊成が主宰した「六百番歌合」という空前の規模の大歌会への出席、「新古今和歌集」の編纂など、家隆は歌の世界で大活躍をしました。
晩年は出家し浄土教を信仰して、沈む夕日に向かいながら極楽浄土を想う「日想観」という教えを修め、極楽へ行くことを望みながら静かに暮らしたと伝わっています。
藤原家隆のその他の作品
(伝藤原家隆墓 出典:Wikipedia)
- 花をのみ 待つらむ人に 山里の 雲間の草の 春を見せばや
- 風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 御禊ぞ夏の しるしなりける
- かすみたつ すゑの松山 ほのぼのと 浪にはなるる 横雲の空
- 梅が香に 昔をとへば 春の月 こたへぬ影ぞ 袖にうつれる
- 和歌の浦や おきつしほあひに うかび出づる あはれ我が身の よるべ知らせよ