【かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

短歌は、短い言葉で歌人の心を表現する詩のひとつです。愛好家も多く、自ら短歌を詠む人も、優れた短歌や歌集を鑑賞して心の栄養とする人もいます。

 

様々な歌人が多くの歌を詠んでいますが、ファンの多い歌人のひとりに、明治時代に儚い一生を生きた石川啄木がいます。

 

今回は明治時代の歌人石川啄木の短歌の中から、「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」という歌をご紹介します。

 

 

本記事では、「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」の詳細を解説!

 

かにかくに 渋民村は 恋しかり おもいでの山 おもいでの川

(読み方:かにかくに しぶたみむらは こいしかり おもいでのやま おもいでのかわ)

 

作者と出典

この歌の作者は「石川啄木(いしかわたくぼく)」です。

 

明治時代、詩歌雑誌『明星』誌上に多く作品を発表した、詩人でもあり歌人でもありました。望郷の歌を多く詠んだ歌人です。

 

この歌の出典は、石川啄木の第一歌集『一握の砂』(第二部:煙 二)です。明治43(1910)12月に刊行された歌集です。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「なにかにつけて渋民村は恋しいものだ。思い出の山も、思い出の川も。」

 

となります。

 

「渋民村」とは、現在の岩手県盛岡市にあった村の名前。石川啄木はこの村で育ちました。

 

文法と語の解説

  • 「かにかくに」

かにかくには副詞です。「何かにつけて、あれこれと」という意味です。

 

  • 「渋民村は」

「渋民村」は石川啄木の故郷、岩手県盛岡市の地名です。「は」は主語を表す格助詞です。

 

  • 「恋しかり」

形容詞「恋し」の連用形「恋しく」+動詞「あり」終止形がついて、音変化して「恋しかり」となっています。

 

  • 「おもいでの山 おもいでの川」

「の」は連体修飾格の助詞です。

 

「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことです。読むときも間をとっていくとよいとされます。普通の文でいえば句点「。」がつくところで切れます。

 

この歌は「恋しかり。」のところで「。」がつきます。三句目に句切れがありますので、「三句切れ」の歌です。

 

対句法

対句法とは、二つの対立または類似するもの、構成やリズムの対応もさせながら、対にして並べる表現技法です。

 

二つのものの共通するところ、または相違対立するところを比べて、それぞれの持つ特性をより際立たせて印象付けます。また、リズムも対応させていくことで、調子も良くなります。

 

この句では「おもいでの山おもいでの川」の部分が対句になっています。

 

「おもいでの」を繰り返して強調するともに、テンポの良さも生み出しています。

 

「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」が詠まれた背景

  

この「かにかくに…」の歌は、明治43(1910)12月に刊行された、石川啄木の第一歌集『一握の砂』に収められています。

 

五部構成の歌集の、第二部「煙」の中の一首です。「煙」の部は、「煙 一」、「煙 二」とさらに二部の構成になっています。この歌は「煙 二」の五十四首中十二首目にあります。

 

「煙 一」では、湧き上がる望郷の念を強く打ち出した後、盛岡での少年時代のこと、学生生活のこと、恩師のこと、かつての友のことなどの歌が中心です。「煙 二」では、都会に住む作者が望郷の念を募らせていくさまがうかがわれる短歌ではじまります。

 

「かにかくに…」の歌の直前の二首を紹介します。

 

このごろは 母も時時 ふるさとの ことを言ひ出づ 秋に入れるなり

(意味:このごろは、母も時々ふるさとのことを話題にすることだ。季節は秋に入り、愁いは増してゆく。)

それとなく 郷里のことなど 語り出でて 秋の夜に焼く 餅のにほひかな

(意味:それなく郷里のことを家族と語り合いながら秋の夜に焼く餅のにおいに、故郷でも餅を焼いて食べたことを思い出している。)

 

都会での生活の場面で、故郷のこと、故郷での生活を思い出している様子が歌われています。年老いた作者の母にとっても、望郷の念はひとしおだったようです。

 

今回の「かにかくに…」の歌も、都会にいる啄木の故郷への思い・気持ちが沢山詰まっている歌なのです。

 

「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」の鑑賞

 

この歌は、望郷の念が率直に歌い上げられた歌です。

 

「おもいでの山おもいでの川」という、シンプルな対句が切々とあふれる作者の望郷の念を素直に表しています。

 

「おもいでの山」も「おもいでの川」も、作者を育んでくれたもの、作者の心の原風景ともいうべきものなのでしょう。

 

この歌を詠んだとき、作者は故郷を遠く離れた東京にいます。東北の山や川とは大きく違う景色を見て生活しているからこそ、故郷の山や川が恋しく思われるのでしょう。

 

石川啄木にとって、渋民村は懐かしいばかりではなく、挫折や落伍も味わった場所です。しかし、そこにある大自然は拒むことなく彼を迎えてくれると信じているのでしょう。

 

 作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木(いしかわ たくぼく)は、明治時代に活躍した詩人・歌人です。本名は石川一(いしかわ はじめ)と言いました。明治19(1886年)、岩手県の住職の家に生まれました。

 

盛岡の渋民村で育ち、盛岡中学校に在籍中、10代のころに詩歌雑誌『明星』に傾倒、歌人の与謝野晶子らの短歌を詠んで、詩歌の道を歩み始めます。

 

明治35年(1902年)に『明星』に初めて短歌が掲載され、文学で身を立てるべく上京しました。しかし、2年後に結核を発症し、岩手県渋民村に帰郷します。

 

明治37年(1905年)、渋民村宝徳寺住職だった父が金銭トラブルにより、曹洞宗から罷免されてしまいます。石川一家は渋民村を追われるように出ていきました。

 

妻子や両親を養うため、啄木は職を転々とし、盛岡や北海道での暮らしを経て、明治41(1908)、啄木は再び上京します。

 

東京での暮らしも楽ではなく、借金を重ねたりしながらも、新聞社に勤めるかたわら文筆活動を続けます。明治43(1910)第一歌集『一握の砂』を刊行しましたが、結核が悪化して、明治45年(1912年)413日、26歳で石川啄木は亡くなりました。

 

啄木の死後、彼の才能を惜しんだ友人たちの尽力により、第二歌集『悲しき玩具』をはじめとして、遺稿数点が書籍となって刊行されました。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)

 

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