【この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

古くより親しまれてきた日本の伝統文学である「短歌」。

 

花鳥風月の美しさを「五・七・五・七・七」の形式で表現し、歌人の心情を詠みこみました。

 

今回は「月」にまつわる有名な歌としてこの世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へばをご紹介します。

 

 

自らの権威を誇ったものとして有名な歌ですが、歌人の心情や詠まれた時代背景はどのようなものだったのでしょうか?

 

本記事では、この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の詳細を解説!

 

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

(読み方:このよをば わがよとぞおもふ もちづきの かけたることも なしとおもへば)

 

作者と出典

この歌の作者は「藤原道長(ふじわら の みちなが)」です。平安時代中期の公卿で、事実上の最高権力者である左大臣の地位にまで昇りつめました。

 

文学をこよなく愛した道長は、紫式部・和泉式部などの女流文学を庇護することに努め、国風文化の発展にも貢献しています。

 

歌人としても優れてた才能をもっており、勅撰集では43首も選ばれるほどでした。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「この世は私のためにあるように思う。今宵の満月のように、私に欠ける部分は何一つないと思うので」

 

という意味になります。

 

藤原氏一族の栄華を極めた心情を詠んだ一首ということで、教科書でもおなじみの歌です。古典文学としてよりも、歴史的資料として取り上げられることが多いでしょう。

 

この歌は勅撰集などの和歌集には記録されていません。道長自身の日記『御堂関白記』にも載っておらず、藤原実資(さねすけ)の『小右記』に書き残したものが今の世にまで伝わっています。

 

文法と語の解説

  • 「この世をば」

格助詞の「を」+係助詞「は」の濁音化した形で、「を」のついた語を「は(ば)」によって取り立てて強調します。「この世」という語を強調し、五句体の調子を整えるために用いられています。

 

  • 「わが世とぞ」

係助詞「ぞ」の形で、「わが世」の意味を強める働きがあります。

 

  • 「望月(もちづき)」

望月は満月を意味しています。月の形がまん丸を描いていることなどから、「望みどおりの月」という意味で「望月」となりました。このことから「完全な」「完成」を例える語としても使われています。

 

  • 「欠けたる」

「たる」は助動詞「たり」の連用形で、完了・存続・並列を表します。ここでは、「欠けている」「不足している」と訳すことができます。

 

  • 「ことも」

名詞などの体言につく係助詞「も」が使われており、並列「~と」・類推「~さえ」などを表しています。

 

  • 「思へば」 

已然形+接続助詞「ば」で「~なので」を表します。動詞の「思ふ」の已然形「思へ」に「ば」がついているので、「思えば」「思うので」となります。

 

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、意味や内容、調子の切れ目を指します。歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。」が入るところに注目すると句切れが見つかります。

 

この歌では二句目の「わが世とぞ思ふ」で流れが一旦切れていますので、「二句切れ」となります。

 

二句切れでは、倒置や二つの内容を表現する時に用いられることが多いです。

 

倒置法

倒置法とは、語や文の順序を逆にする表現技法です。あえて文の調子を崩すことで、意味を強める効果があります。短歌や俳句でもよく使われる修辞技法のひとつです。

 

この歌でも本来の意味どおりに文を構築すると、「望月の 欠けたることの なしと思へば この世をば 我が世とぞ思ふ」という語順になります。

 

「この世は私のためにあるように思う」という衝撃的なはじまりに、読み手は「なぜそんな風に考えたのだろうか」と今後の展開を期待させます。

 

このように倒置法を使うことで、読み手に強い印象が残り、インパクトを与えることができます。

 

隠喩法

隠喩とは、「~のような」などの比喩を表す言葉を使わずに、物事をたとえる表現技法のことです。印象を強めたり、感動を高めたりする効果があります。

 

この歌でも今の自分の心情を望月にたとえ、「満ち足りている」「完璧だ」と表現しています。

 

この当時、朝廷内では熾烈な権力争いが繰り広げられていたため、言外に真意を置く歌が多く、気持ちを直接的に表現することは少なかったようです。

 

しかし、圧倒的な強者として不動の地位を確立した道長には、周囲へ気兼ねする必要がなかったのでしょう。隠喩を使いながらも、誇れる気持ちがストレートに伝わってきます。

 

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」が詠まれた背景

 

道長は自ら「この世は私の思いのままだ」と権勢高らかに誇っていますが、この歌にはどんな背景があったのでしょうか?

 

平安時代の朝廷内では陰謀にまみれた藤原氏一族の権力闘争が絶えず続いていましたが、道長は「一家立三后」の実現により、栄華を極めた貴族として語られています。

 

(※一家立三后とは、道長が自身の娘を天皇や皇太子の妻として送り込み、一家から三人の皇后を出したことを言います)

 

具体的にまとめると・・・

 

  • 第66代天皇:一条天皇・藤原 彰子(長女)
  • 第67代天皇:三条天皇・藤原 妍子(次女)
  • 第68代天皇:後一条天皇・藤原 威子(四女)

     

    となります。

     

    これは当時としても驚くべきことで、『小右記』にも「一家三后を立つるは、未曾なり。」と述べられています。こうして道長は三皇后を全て自分の娘にすることで、他の藤原氏の中でも特に抜きん出た存在となりました。

     

    この歌が詠まれたのも、まさに一家三后が実現したその時です。寛仁二年(1018年)1016日、四女・威子が女御として入内した日、道長の自宅で祝宴が開かれました。

     

    道長は返歌を求めた上でこの歌を詠んだのですが、藤原実資は「御歌優美なり。酬くひ答えるに方なし(優れた歌で、とても返歌は作れません)」として丁重に断ります。代わりにその場に居た一同で唱和することを提案したのでした。

     

    道長もこれを大いに喜び、歌が返されなかったことについて責めなかったといいます。この一首の背景には、無邪気な道長の姿がありました。

     

    「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の鑑賞

     

    満月にことよせて自身の権威を高らかに歌い上げた道長。この歌によって、「道長といえば、尊大な権力者」というイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。

     

    確かに道長は悲願であった藤原家のゆるぎない地盤の完成を確信し、この歌を詠んだことでしょう。しかし、この頃すでに道長の目には、月が欠けていくように権勢の翳りが見えていました。

     

    道長は30代の頃から様々な病気を繰り返し、晩年は糖尿病やその合併症に苦しんでいます。

     

    この歌が詠まれる前年の寛仁元年(1017年)2月、従一位・太政大臣を辞任し、寛仁三年(1019年)3月には剃髪して出家しています。

     

    これらの行動は、まだ隠居するほどの年齢ではなかったことから、おそらく健康状態を考慮してのことだと考えられます。

     

    だとすると、この歌は酒の酔いに任せ「今まさに絶頂期にあるのだ」と強がってみせたもので、「このまま月が欠けなければよいのに」という本音が吐露されているのかもしれません。

     

    また、道長が著した『御堂関白記』にはこの夜の宴についての記載はありますが、和歌については触れられていません。道長にとってはあまり深い意味がなかったのかもしれません。

     

    作者「藤原道長」を簡単にご紹介!

    (藤原道長 出典:Wikipedia

     

    藤原道長(966年~1027年)は、平安時代中期の公卿です。法成寺を建立したことから「御堂関白」とも呼ばれますが、実際は関白の地位についたことはありません。

     

    藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男で、当初は有能な兄に隠れあまり目立つ存在ではありませんでした。

     

    しかし30歳の頃(995年)、長兄関白・道隆と三兄・道兼が相次いで病没し、出世の道が開きはじめます。さらに翌年には長徳の変で兄の子との政争にも勝ち、左大臣に昇進しました。

     

    35歳(1000年)のとき、すでに定子(道隆の娘)という皇后がいる一条天皇に、娘の彰子を入内させます。そうして生まれた皇子が後一条天皇として即位し、初めて孫となる天皇の摂政をとりました。

     

    さらに続々と自分の娘を中宮にさせ、一家三立后を成し遂げた道長は実質上最高の権力者となります。誰もがうらやむ栄華を極めた道長でしたが、この摂政の地位をたった一年で辞し、息子の頼道に譲っています。

     

    糖尿病とその合併症を患っていた道長は、政界から引退した後に、54歳(1019年)で出家しました。

     

    死期が近づく中で壮大な法成寺を建立し、そこで病気療養しながら静かに暮らします。浄土教にすがり極楽浄土を願うも、62歳(1028年)にこの世を去りました。