【父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる】徹底解説!!意味や表現方法•句切れ•鑑賞文など

 

古代、和歌は都に住む貴族たちだけではなく、農民や兵役に当たる防人なども作っていました。

 

庶民の詠んだ和歌は飾らずに純朴で、心からの気持ちをそのまま表現したものが多く、現代の人が読んでも共感できる内容となっています。

 

今回は、故郷から遠く離れなければならなかった一人の防人が両親を思って詠んだ歌「父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる」を紹介します。

 

 

本記事では、「父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる」の意味や表現技法・句切れ・防人について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる」の詳細を解説!

 

父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる

(読み方:ちちははが かしらかきなで さくあれて いひしけとばぜ わすれかねつる)

 

作者と出典

この歌の作者は「丈部稲麻呂(はせつかべの いなまろ)です。

 

奈良時代の防人(さきもり)で、駿河(現在の静岡県辺り)の人だと伝わっています。防人とは「辺境を守る人」という意味で、古代では北九州の守備にあたった兵士のことを言います。

防人は諸国から徴収された農民が主で、任期は3年でした。特に東国(現在の関東地方)の農民が防人を命じられることが多かったようです。稲麻呂も防人として北九州へ赴いた一人です。

 

この歌の出典は「万葉集」です。

 

現存する日本最古の歌集です。全20巻に約4,500首の歌が収められており、8世紀末頃に完成したとされる大作です。奈良時代の歌人大伴家持(おおともの やかもち)が中心となり編纂したと考えられています。

「万葉集」の歌は天皇から農民、防人のものまで幅広く収集されており、作者の身分を問わずに歌が選ばれているところが大きな特徴です。防人の詠んだ歌は主に20巻目にまとめられており、稲麻呂の作ったこの歌も20巻に収められています。

 

現代語訳と意味

 

この歌の現代語訳は・・・

 

「父と母が、無事でいなさいねと言って頭をなでてくれたことが忘れられないのだ。」

 

となります。

 

頭をなでる行為は、無事を祈る当時のおまじないでした。故郷から遠く離れて兵役に当たる作者の稲麻呂は、家を出た時の父母の顔や、自分を気遣ってくれた仕草が片時も忘れられなかったのでしょう。父と母は無事だろうか、会いたい、帰りたいといった切なる思いを感じさせる歌です。

 

文法と語の解説

  • 父母が頭かきなで

「父母」はちちははと読みます。両親のことです。

「頭かきなで」は、頭をなでてという意味です。「頭」は「かしら」と読みます。「かきなで」は「かきなづ」の連用形で、漢字では「掻き撫で」と書きます。手などで優しくなでることを指します。古代において、旅立ちに際して頭をなでるのは無事を祈るおまじないでもあり、愛情の表現でもありました。

 

  • 幸くあれて

無事でいなさいと、幸せでいなさいと、といった意味です。

「幸く」はこの歌では「さく」と読みますが本来は「幸(さき)く」であり、「さく」というのは東国の訛りです。同じく「あれて」は「あれと」の訛りで、訛りを取ると「幸(さき)くあれと」となります。

 

  • いひし言葉ぜ

言った言葉が、という意味です。「いひし」は「いふ(言ふ)」の連用形、「し」は過去を表す助動詞「き」の連体形です。

「言葉ぜ」は「けとばぜ」と読み、「言葉(ことば)ぞ」の東国訛りです。語尾の「ぜ」は係り助詞の「ぞ」であり、第五句にある「つる」と係り結びになっています。

 

  • 忘れかねつる

忘れられないのだ、といった意味となります。「忘れ」は「忘る(わする)」の連用形です。「かね」は接尾語「かぬ」の連用形で、「~することができない、~するのが難しい」という否定を表します。

「つる」は助動詞「つ」の連体形で、第四句の「ぜ」と係り結びとなり語句を強調します。「つ」は通常は完了の助動詞とされますが、元は動作を確信、確認したりする意味を持つ言葉です。動作が現在のものであるか過去のものであるかは文脈から判断をします。

この歌では、歌を詠んでいる現在も忘れられないという心境を表現していますので「忘れられなかった」と過去形で訳すのではなく現在形で訳す方が適しています。

 

「父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる」の句切れと表現方法

句切れ

この歌に句切れはありません。

 

係り結び

「言葉ぜ」の「ぜ」と「忘れかねつる」の「つる」が係り結びとなっています。忘れられないという思いを強調しています。

 

「父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる」が詠まれた背景

 

防人を命じられた者は、任地の北九州まで長い旅をします。道中で稲麻呂は何度も何度も両親の様子を思い浮かべたことでしょう。

 

稲麻呂は農民です。当時農民は主に稲作をし、その収穫を税として納めていました。農民の家から男子が一人いなくなることは、働き手が減るということ…、防人を命じられても税が免除されるわけではありません。稲麻呂は自分が旅立ったあとの両親が心配でたまらなかったことでしょう。

 

しかし、恐らく両親はそんなそぶりは見せずに「幸くあれ」と稲麻呂を送り出しました。当時の旅は命がけであり、生きて帰って来られるかも分かりません。両親は、ただただ稲麻呂の無事だけを願って優しく頭をなでてくれました。

 

稲麻呂にもその思いが分かったからこそ、別れ際の両親の言葉や様子を忘れることができなかったのでしょう。そしてその心境をそのまま、生まれ育った東国の訛りのままに歌にしたのではないでしょうか。

 

「父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる」の鑑賞

 

【父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる】は、父母への思いや郷愁の念をひしひしと感じる歌です。

 

単に親孝行だからというだけではない、子が親を心から大切に思う気持ちが伝わります。また、頭を「なで」ではなく「かきなで」とする言葉からは両親の優しい仕草と、我が子の無事を祈る愛情をくみ取ることができ、胸を打ちます。

 

東国の訛りで詠まれているのは、あえて訛りを表現に用いたのではなく、それが自分の当たり前の言葉だったからでしょう。当時の農民のほとんどは読み書きができません。この歌は稲麻呂が書き残したものではなく、口頭で詠んだものと考えられます。

 

防人の歌が万葉集に収められているのは、編者とされる大伴家持が防人監督の任をしていた時期があり、その中で彼らの歌を集めたからと言われています。稲麻呂の歌は防人たちの共感を呼び口々に伝わったのかもしれませんし、大伴家持自身が直にきいたものかもしれません。

 

どちらにせよ別れ際の両親が忘れられないという切なる思いは大伴家持の心を打ったのでしょう。稲麻呂が率直な言葉で詠んだこの歌は、現代の読み手にも切なく悲しい郷愁の念を感じさせ、互いに思いやる親子の深い愛情を伝えて心を震わせます。

 

「防人」について簡単にご紹介!

(温故創生乃碑(熊本県山鹿市)に見る防人 出典:Wikipedia

 

日本は西暦663年、同盟国の百済(くだら 朝鮮半島の一部)が唐に攻められたために百済へ軍を派遣し、唐と戦争になり敗北をします。これが「白村江(はくすきのえ)の戦い」です。

 

以来朝廷は、険悪な関係となった唐が攻めて来るのを警戒して、北九州に「防人」という警護兵を置くことにしました。防人として徴集されたのは諸国の農民、中でも東国の農民が多く徴集されました。理由は東国には体が丈夫で屈強な人が多かったからとも、東国の力を削ぐためとも言われています。

 

防人を命じられたら拒否することは許されません。防人の任期は3年ですが、延期されることもあり、また賃金はなく、故郷で納める税金も免除されません。任に就く旅費も、警備に用いる武器も防人は自分で用意しなければならず、任期中は自分で作物を育てて食べる自給自足生活でした。

 

また、防人の仕事が終わっても手当は出ません。彼らはお金も持たず、自分の足で遠い故郷へ帰っていきました。故郷へたどり着けずに行き倒れてしまう者も決して少なくはなかったでしょう。

 

稲麻呂の他にも、多くの防人やその家族が歌を残しています。防人が故郷の親や妻を思って詠んだもの、また防人となった男性の家族が詠んだものなどが「防人の歌」として現代まで伝わっています。

 

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