古典文学の時代から日本に伝わる詩のひとつに短歌があります。
五・七・五・七・七の三十一文字で自然の美しい情景を詠んだり、繊細な歌人の心の内をうたい上げます。
今回は、日常のちょっとした風景を明るく清らかな感性で詠い上げた歌人・窪田空穂の歌「麦のくき口に含みて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ」をご紹介します。
窪田空穂(歌人) pic.twitter.com/FvGB9lvnU6
— ryo (@ryookabayashi) March 26, 2019
本記事では、「麦のくき口に含みて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「麦のくき口に含みて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ」の詳細を解説!
麦のくき 口に含みて 吹きをれば ふと鳴りいでし 心うれしさ
(読み方:むぎのくき くちにふくみて ふきおれば ふとなりいでし こころうれしさ)
作者と出典
この歌の作者は「窪田空穂(くぼた うつぼ)」です。
ありのままの日常生活の周辺をテーマとして、自分の心の動きを巧みにとらえ、人生の喜びや苦しみをにじませた歌を数多く詠んだ歌人です。
この歌の出典は大正4年(1915年)に刊行された歌集『濁れる川』です。
歌人として常に第一線で活躍していた空穂は、一時作歌を離れ、散文作家としての活動に専念していました。再び作歌に復帰した後にまとめられた、空穂の意欲作です。
現代語訳と意味 (解釈)
この歌を現代語訳すると・・・
「麦の茎を口に含んで吹いていると、ふいに音が鳴り出した時の心のうれしさよ」
という意味になります。
麦の茎を切って、笛のように吹き鳴らすものを「麦笛」といいます。昔、農村で育った子供たちは麦笛で良く遊んでいたようです。
この歌は、空穂が子供時代を回想して、麦笛が鳴ったときの喜びを詠った歌です。
文法と語の解説
- 「吹きをれば」
「吹く」+「をれ(古語の補助動詞・居(を)り の已然形)」+接続助詞「ば」。
「吹いたところ」「吹いたら」という意味。
- 「鳴りいでし」
「鳴る」+「出(い)づ(出る、という意味)」+「し(過去の助動詞「き」の連体形)」。
「鳴り出した」と言う意味。
- 「心うれしさ」
「うれしさ」は「うれしい」(形容詞)の名詞形。
「麦のくき口に含みて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことで、読むときもここで間をとると良いとされています。
この句に句切れはありませんので、「句切れなし」です。
体言止め
体言止めとは、文末を助詞や助動詞ではなく、体言(名詞・代名詞)で結ぶ表現方法です。文を断ち切ることで言葉が強調され、「余韻・余情を持たせる」「リズム感をつける」効果があります。
この歌の最後は「心うれしさ」という名詞です。体言止めにすることにより、「語り手の感動」を強調しています。
「麦のくき口に含みて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ」が詠まれた背景
信州の農民の血を引き、人生における挫折の経験も積んでいた空穂は、現実を凝視しながらも、根底にはロマンティシズムが溢れる歌を数多く詠んでいます。
また、ちょっとした小景に心を動かすような「微旨への指向」を持った歌人でした。
「麦のくき」の歌は、普通の人であれば記憶に残らないようなちょっとした出来事に叙情を感じる空穂の特徴が良く表れた歌だと言えます。
空穂が歌人としての活動を始めたころ、詩歌を中心とする文芸誌『明星』が創刊されます。空穂も創刊の中心メンバーとして活躍しました。
しかし、その1年後に空穂は『明星』を退社します。『明星』の創設者・与謝野鉄幹は、対社会的な感慨を多く詠む歌人で、空穂が「微旨を得た、心にくい作だ」と思える自らの作品を「男子の歌じゃない」などと言って否定したといいます。その鉄幹の考え方に、空穂は共鳴できなかったのだそうです。
一方、中心メンバーのひとりである与謝野晶子は、奔放な恋の歌を数多く詠んでおり、空穂はそれにも共鳴できなかったのだそうです。
空穂は、『明星』の浪漫主義とは明らかに異なる、自然主義の短歌を詠み続けました。
「麦のくき」の歌は、空穂の歌風が存分に表現された空穂の代表作のひとつです。
「麦のくき口に含みて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ」の鑑賞
長野県の農村で生まれ育った空穂の子供時代の楽しい思い出、それは常に農村風景とともにありました。
梅雨入り前の6月、風がさわやかで気持ちがいい季節、この時期に麦が色づき麦は収穫期「麦秋期」を迎えます。
大人たちは麦刈りを行い、子供たちは麦刈り後に残った麦で「麦笛」を作って遊びます。
まだ小さかった作者は、上手に笛を鳴らすことができません。何度か挑戦してようやく笛が鳴ったときのうれしさ、そのとき見た風景は、子供時代を象徴する幸せな情景として、いつまでも作者の心の中に残っていたのでしょう。
子供時代のありふれた光景とも思えるこの歌は、実は作者にとってとても意味のある歌です。家族揃っての温かな生活は、あまり長く続かなかったのです。
少年時代に養子に出された空穂は、18歳のとき、養家を出奔して東京専門学校(現・早稲田大学)文科に入学。その後、実業家を志して中退し、母の病気により帰郷しました。
21歳のとき再び養子縁組をしましたが、22歳のとき養家を去り、代用教員となりました。
常に心やすらぐことのない不安定な生活を送っていた「窪田空穂」。
子供時代を幸せで輝かしい時代と表現したこの歌は、現代の私たちにも癒しを与えてくれる、美しい作品となっています。
作者「窪田空穂」を簡単にご紹介!
(窪田空穂生家 出典:Wikipedia)
窪田空穂 (くぼた うつぼ)は、明治10年(1877年)に長野県和田村(現・松本市和田)に生まれました。本名は窪田 通治(くぼた つうじ)。
文学少年だった空穂が短歌を作り始めたのは20代になってからです。与謝野鉄幹に認められ『明星』に参加したことが、歌人として活躍する基盤となりました。『明星』を離れた後は、田山花袋らと交わる中で、自然主義文学と出会いました。自然主義の短歌を詠み、自然主義の短編小説も多く残しています。
40代になった空穂は、母校早稲田大学の教壇に立ち、古典研究を精力的に行いました。『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』の評釈は、特に高い評価を得ています。
晩年の空穂の短歌は、日常生活の周辺をテーマとして、人生の喜びと苦しみ、悩みなどの心の動きに合わせて詠ったもので「境涯詠」ともいわれています。
生涯にわたり、歌人として、また、国文学者として、精力的に活動し続けた空穂は、昭和42年(1967年)に数え年91歳の生涯を終えました。
「窪田空穂」のそのほかの作品
(窪田空穂記念館 出典:Wikipedia)
- 鉦(かね)鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか
- 生きてわれ聴かむ響きかみ棺を深くをさめて土落とす時
- われや母のまな子なりしと思ふにぞ倦(う)みし生命(いのち)も甦り来る
- つばくらめ飛ぶかと見れば消え去りて空あをあをとはるかなるかな
- 星満つる今宵の空の深緑(ふかみどり)かさなる星に深さ知られず