【かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

今回は、現代短歌の第一人者である歌人「石川啄木」の一首「かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど」をご紹介します。

 

 

本記事では、かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど」の詳細を解説!

 

かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど

(読み方:かのときに いいそびれたる たいせつの ことばはいまも むねにのこれど)

 

作者と出典

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

この歌の作者は「石川啄木(いしかわ たくぼく)」です。

 

明治時代に活躍した歌人です。岩手県に生まれ、文学で生きていこうと上京するも浪費癖がひどく、失敗や挫折を繰り返した苦労人でした。貧苦と病苦の中で生活に即した3行書きの短歌を詠み、処女歌集『一握の砂』で有名になりました。しかし病に倒れ、27歳という若さでこの世を去りました。

 

また、この歌の出典は『一握の砂』です。

 

一握の砂は1910年(明治43年)に発行された作者の処女歌集です。作者の上京以後の短歌551首を収録しています。故郷や北海道での生活を回想した歌、都会生活の哀歓をうたった歌が主で、これらの歌はすべて、石川啄木の作品の特徴でもある3行分かち書きの形式で表現されています。

 

現代語訳と意味 (解釈)

 

この歌を現代語訳すると・・・

 

「あの時に言いそびれた大切な言葉は、今も心に残っているのだけれど。」

 

となります。

 

この歌には、恋い焦がれる相手に対する強い気持ちと、伝えられなかった後悔の気持ちが込められています。

 

文法と語の解説

  • 「かの時に」

「かの時」は、あの時という意味です。過去のある一時を指しています。

 

  • 「言ひそびれたる」

「言いそびれる」はこの6文字で一つの動詞で、「言いそびれたる」は連体形です。もとは動詞「言う」に動詞「逸れる」がくっついたもので、「そびれる」には、目的としていた行動をしそこなう・する機会がなくなるという意味があります。

 

  • 「大切の言葉は」

一説に「あなたが大切だ、という言葉」と捉える考え方もあります。どちらにせよ、相手に対して「好意を抱いていることを伝える言葉」を意味しています。

 

  • 「今も胸に残れど」

「残れど」…動詞「残る」+接続助詞「ど」。この「ど」は逆接確定条件を表す接続助詞です。逆接確定条件とは、あるひとつの事実から、予想と反するこたえが導き出されることです。例えば「がんばった/けれども成功しない」「涙を流した/けれども伝わらない」といった場面がそうです。この歌では「残っている/けれども伝えられない・叶わない」ということを表しています。

 

「かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことで、読むときもここで間をとると良いとされています。

 

この歌には句切れがありません。句切れがないことにより、読み手は歌全体が流れるような印象を受けます。

 

省略法

省略法とは、文章を途中で切り、あえて言葉を省く表現技法です。

 

歌の最後が「残れど」で終わっており、その後に続く言葉を省略しています。これによって、読み手に想像を膨らませさせたり、余韻を感じ取らせたりする効果が生まれています。

 

「かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど」が詠まれた背景

 

この歌が詠まれたとき、石川啄木には一途に想ってくれる妻がいましたが、この歌での「君」は妻とは別の女性です。

 

この歌での「君」は、啄木が北海道で代用教員をしていたころの同僚「橘智恵子(たちばな ちえこ)」だと言われています。

 

(1910年頃 橘智恵子 出典:Wikipedia)

 

彼女が啄木と関わった期間はわずか3ヶ月でしたが、啄木の歌集『一握の砂』には、彼女のことを詠んだ歌が22首あります。

 

啄木は彼女を「真直(まっすぐ)に立てる鹿ノ子百合(かのこゆり)」と例えました。

 

啄木の智恵子への思いは強く、教員を辞めて札幌に移る前日には、智恵子の下宿を訪ねて2時間話し、自身の詩集『あこがれ』を贈ったと言われています。上京後も彼女のことを思っていたようで、「なぜかたまらないほど恋しくなってきた。『人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい!』。そう思った」と日記に書き残しています。

 

歌集『一握の砂』を刊行したときには、歌集とともに手紙を智恵子へ送りました。そこには「君もそれとは心付給ひつらん」…「君もそうだと(恋の歌が自分たちのことだと)気付いていらっしゃるでしょう」といったことを書いていました。

 

そのとき彼女はすでに結婚していましたが、智恵子からの返事には『お嫁には来ましたけれども心はもとのまんまの智恵子ですから』と書かれており、智恵子も少なからず啄木に好意をもっていたのではないかと言われています。

 

「かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど」の鑑賞

 

【かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど】は、恋心を伝えられなかった後悔と、今でも相手を好きだという強い気持ちを詠んだ歌です。

 

過去のある時を思い返している主人公。「気持ちを相手に伝えられなかったということを今も悔やんでいるようです。

 

「言わなかった」のか、「言えなかった」のかは分かりませんが、伝えられなかった言葉は今もずっと胸の中に残って消えません。伝えられなかったからこそ、忘れることができずに、ずっと疼いてしまうのでしょうか。「残っているけれど…」と言い切らずに終わっているところが、より一層切なさや虚しさを醸し出しています。

 

啄木は恋愛の場面においてこの歌を詠みました。しかし、それに限らず家族や友人に、偶然出会ったあの人に…。「言ひそびれたる大切の言葉」は、それぞれの人の胸にあるのかもしれません。

 

作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木は、1886年(明治19年)岩手県日戸村に、お寺の長男として生まれました。

 

生まれた翌年に渋民村に移住し、両親の愛を一身に受けて育ちました。小学校では、卒業時に主席を争うほど優秀だったと言われています。

 

盛岡中学校在学中に、上級生の金田一京助の影響で文学にめざめ、雑誌『明星』を愛読。読書のし過ぎと、のちに妻となる節子との恋愛がもとで成績不振となり、中学校を退学。文学で身を立てるべく上京します。

 

しかし、何の目算もなかった試みは4ヶ月で失敗に終わり、病に倒れて帰郷。病が癒えるころに作品を発表し始めると、1903年(明治36年)に『明星』に掲載された詩が注目されました。これを機に詩作に自信がつき、様々な雑誌で作品を発表。1905年(明治38年)に第一詩集『あこがれ』を刊行し、若き詩人としての地位を手に入れました。

 

一方、父が住職を罷免したことや、自身の結婚もあって生活は困窮。一家の生計を立てるために小学校で代用教員をするも1年で免職します。職を求めて北海道に渡ったり、再び上京したり転々としながら小説を書くも売れず、生活苦が続きました。そういった経緯もあって、当初の浪漫的か歌風から、現実を直視した自然主義的歌風へと転じていきました。

 

さらに、1910年(明治43年)には大逆事件に衝撃を受けて社会主義に傾倒。同年に歌集『一握の砂』が刊行され歌人として有名になるも、その翌年に肺結核でこの世を去りました。享年27歳でした。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)