【瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

新元号「令和」の典拠として改めて注目されることとなった『万葉集』。

 

天皇や皇族だけでなく農民まで、あらゆる人々の心情や生活から生まれた歌は、今なお共感できる部分が数多く残されています。

 

今回は、万葉集の中から子どもへの深い愛情を詠んだ歌「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ」をご紹介します。

 

 

本記事では、「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ」の詳細を解説!

 

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ

(読み方:うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしぬはゆ)

 

作者と出典

この歌の作者は、「山上憶良(やまのうえのおくら)」です。奈良時代初期の貴族・歌人です。

 

儒教や仏教に傾倒していたことから、家族愛や貧困など人生や社会問題を題材とした思想性の強い歌を多く詠んでいます。

 

また、この歌の出典は、現存する最古の和歌集である『万葉集』(巻5・803)です。様々な身分の人々が詠んだ歌が収録されており、その数は4500首以上にものぼります。

 

憶良は78首もの歌が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂らとともに時代を代表する歌人として高く評価されていました。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「瓜を食べると子ども達のことが自然と思い出される。栗を食べると、なおさら偲ばれる」

 

となります。

 

この歌は、「五・七、五・七、五・七、五・七・七」という形式で詠まれる「長歌」の一節です。

 

長歌とは「五・七」音の句を3回以上繰り返し、最後に「七」音の句を加えた和歌のことで、長歌のあとには反歌とよばれる短い歌がつくのが一般的でした。

 

瓜や栗といった子ども達の好物を見ると、喜んで食べる姿をつい思い出してしまうのでしょう。特に難解な技巧が使われることなく、子どもを愛おしく思う親心を率直に表現した歌です。

 

文法と語の解説

  • 「瓜(うり)」

現在の「マクワウリ」のことです。瓜類の中でも唯一甘みを有するものだったことから、奈良時代でも秋の果物として食されてきました。

 

  • 「食めば」

「食む(はむ)」の已然形+偶然条件の接続助詞「ば」の形式です。「食べると」と訳します。

 

  • 「思ほゆ」

「思ほゆ(おもほゆ)」の終止形で、「(自然に)思われる」と意味します。

元は「思ふ」の未然形「思は」+自発の助動詞「ゆ」の形式が変化して一語化したものです。

 

  • 「まして」

副詞で「なおさら」「いっそう」と訳します。

 

  • 「偲はゆ」

「偲ふ(しぬふ)」の未然形+自発の助動詞「ゆ」の形式です。

「自然と偲ばれる」「自然に思い出される」を意味します。

 

「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、意味や内容、調子の切れ目を指します。歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。」が入るところに注目すると句切れが見つかります。

 

しかし、五七調で詠まれる長歌の場合は、句切れはありません。歌の意味上の切れ目でいうと、句末が終止形となっている二句と四句です。

 

対句法

対句法とは、二つの対立するもの、または類似するもの言葉を対にして並べ印象付ける表現技法のことです。俳句ではよく用いられる技法で、リズム感を作り出す、韻を整えるなどの効果があります。

 

この句でも「瓜」と「栗」が子どもの喜ぶ甘い食べ物として取り上げられており、二つの言葉を重ねることで子どもへの思いを強調しています。

 

「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ」が詠まれた背景

 

この歌は、神亀5年(728年)721日に詠まれた歌とされており、このとき憶良は69歳でした。晩年の作ということから、実の子どもではなく、世間一般の父の子どもへの愛情を詠んだとする説もあります。

 

この長歌には続きがあり、「子等を思ふ歌」という作品の一節を取り上げたものです。「子等を思ふ歌」の構成は、「序文-長歌-反歌(短歌)」となっています。

 

序文は仏典の言葉を使い、漢詩調のやや長い文章で記載されています。要約すると・・・

 

「煩悩を解脱したはずの釈迦ですら、自分の子どもを愛する煩悩がある。まして我々世間一般の人などは、我が子を愛するという煩悩を超えることなどできるはずがない。」

 

となります。

 

次に続く長歌では・・・

 

「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ いづくより来りしものそ目交にもとなかかりて安眠しなさぬ」

(現代語訳:いった子供というものは、どういった因縁によって私子どもとして生まれてきたのであろうか。面影がしきりに目の前をちらついて安眠させてくれないことよ)

 

とし、最後に以下の短歌を置いてこの作品を締めくくっています。

 

「銀も 金も玉も 何せむに 優れる宝 子にしかめやも」

(現代語訳:銀も金も宝石も、どうしてそれらより勝っている子どもという宝に及ぶだろうか。いや及ぶはずがない。)

 

作品全体を通して読むと、単にほのぼのとした子どもへの愛情を詠んでいるのではなく、仏教の戒めの一つである愛執(愛するものに執着すること)に近い心境として捉えていることが分かります。

 

瓜や栗を見れば子ども達の喜ぶ姿を思い出し、面影が幻のようにちらついて安眠できないと愛執に苦悩する様子をありありと伝えています。

 

まるで子どもが困った存在でもあるかのようで、マイナスな印象も感じ取れます。

 

ですがそんな状態であっても、最後は「銀や銀、宝石よりも子どもは私にとって宝だ」と、主観的で揺るがしがたい子どもの尊さを強く訴えかけています。

 

こうした一連の流れがあってこそ、子どもを思う親の気持ちの強さが反映された美しい歌だといえます。

 

「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ」の鑑賞

 

この歌は、家族愛や人生について多く詠んできた作者が、子への愛情を、実感を込めて歌い上げた人間味のある歌です。

 

万葉集の歌の世界には、男女の恋愛を詠った歌が数多くありますが、とりわけ憶良は子どもを思う歌を多く残しました。

 

この歌もその内の一つで、子ども達が喜んで食べていた瓜や栗を目にすると、自然と思い出されて仕方がないと始まっています。

 

まだ砂糖がなかった時代において、瓜や栗といった甘みのある食べ物は子ども達の大好物だったのでしょう。「これを子ども達にも食べさせてやったら喜ぶだろうに・・・」と思いを馳せています。

 

こうした子供への深い愛情は、時の隔たりを感じさせず現代の人々にも共感できるものではないでしょうか。この歌を読むと、いつの時代も変わらない、子を思う親の普遍的な愛情が身に染みて心に迫ってきます。

 

作者「山上憶良」を簡単にご紹介!

 

山上 憶良(やまのうえ の おくら)は、奈良時代初期の歌人・貴族です。父母や出自など詳しいことははっきりとしていません。一説には百済系渡来氏族(朝鮮半島から渡ってきた者の子孫)とも言われています。

 

大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、先進国であった唐にわたり儒教や仏教など最新の学問を学びました。聖武天皇の皇太子時代、侍講として教育係にも任命されており、当時としても優秀な人物であったとうかがえます。

 

神亀3年(726年)頃筑前守に任ぜられ九州へと下向した憶良は、大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人と出会います。

 

憶良が歌人としての活躍を決定づけたのは、大伴旅人との文学的な交流にあるといわれています。事実、万葉集に収録されている憶良の歌は、この筑前守時代のものが中心となっているのです。

 

高い家門の出で、深い教養を持つ旅人と互いに影響しあい、多くの良歌を生み出しました。代表作は今回紹介した「子等を思ふ歌」の他に、貧しさに苦しむ農民の現実の姿を詠んだ「貧窮問答歌」があります。

 

恋愛や自然の風景など華やかな世界を詠んだ万葉の世界で、たった一人貴族でありながら、老いや貧困、病気や詞の苦しみなど、人生の哀歓を歌いあげました。

 

現実の生活に根差して生きた憶良は、あらゆる意味で他の万葉歌人とは違った歌風を築いた異色の歌人だったのです。

 

「山上憶良」のそのほかの作品

 

  • 銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
  • 「白波の 浜松が枝の 手向けぐさ 幾代までにか 年の経ぬらむ」
  • 「家に行きて いかにか我がせむ 枕付く 妻屋寂しく 思ほゆべしも」
  • 「常磐なす かくしもがもと 思へども 世の事なれば 留みかねつも」
  • 「大伴の 御津の松原 かき掃きて 我れ立ち待たむ 早帰りませ」
  • 「霞立つ 天の川原に 君待つと い行き帰るに 裳の裾濡れぬ」