太古の昔から、日本人は五・七・五・七・七のしらべで歌を詠み、自分の気持ちや感動を表現してきました。
古代から連綿と伝わる和歌には、現代でも多くの人に愛される名歌も数多くあります。
今回は日本最古の歌集「万葉集」から「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」という歌をご紹介します。
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
作者:山部赤人 集録:万葉集撮影者:Adolfo Farsari (1841 - 1898) 撮影年:1886年 撮影場所:田子の浦橋
画像はwikiから。 pic.twitter.com/b3Nqorr4TB— 蒼い駒鳥 (@aoikomadori) March 22, 2014
本記事では、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」の詳細を解説!
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
(読み方:たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにそ ふじのたかねに ゆきはふりける)
作者と出典
この歌の作者は「山部赤人」(やまべのあかひと)です。万葉集を代表する、奈良時代の歌人です。
この歌の出典は『万葉集』(巻三 318)です。
『万葉集』は、奈良時代末期に成立、日本に現存する最古の和歌集で、20巻、約4500首の歌から構成されています。天皇や貴族といった上流階級の人々ばかりではなく、防人(さきもり)や農民など、庶民の歌も収められています。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「田子の浦を過ぎ、広い海にこぎ出でて眺めてみると、真白に、富士山の山頂に雪が降っていることよ。」
となります。
富士山の雄大さを詠った叙景歌です。
文法と語の解説
- 「田子の浦ゆ」
「田子の浦」は、静岡県の駿河湾の西海岸の地名です。
「ゆ」は経由点を表す格助詞です。田子の浦を過ぎ、海の広いところまで漕ぎだしていることを示します。
- 「うち出てみれば」
動詞「打ち出づ」の連用形「打ち出(うちいで)」+接続助詞「て」+動詞「みる」の已然形「みれ」+接続助詞「ば」です。
- 「真白にそ」
「真白に」は形容詞「真白なり」の連用形「真白に」です。真白ろは「まっしろ」という意味です。
「そ」は係助詞で、係り結びを作ります。(結句の解説で係り結びについて詳しく説明します。)
- 「富士の高嶺に」
「の」は連体修飾格の格助詞。「に」は、存在の場所を表す格助詞です。
高嶺とは、高い山・高い峰(山頂)のことを指します。
- 「雪は降りける」
「降りける」は、動詞「降る」の連用形「降り」+詠嘆の助動詞「けり」の連体形「ける」です。
「けり」が連体形になっているのは、「真白にそ」のところで、係助詞「そ」があり、係り結びになっているからです。
係り結びとは、「そ(ぞ)・なむ・や・か」の係助詞が出てくると、文末が終止形ではなく、連体形や已然形に変わるというものです。標準的な現代語には消滅してしまった、古語に特有のルールです。疑問の意味や、文意を強調する働きがあります。
この歌では、「真白にそ」で係助詞があり、歌の終わりの「降りける」は連体形になっています。広々とした海から眺めた雪を頂いた富士山という雄大な景色の美しさを強調しています。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことです。
この歌に句切れはありませんので、「句切れなし」となります。雄大な景色を途切れるところなく詠んでいます。
表現技法
この歌に特に表現技法は用いられていません。
平明な言葉で簡潔に、広い海と大きな山、神がかった富士山を悠々と詠んだ歌です。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」が詠まれた背景
この歌は、山部赤人が富士山を見て作った長歌に添えられた反歌です。
長歌とは、五七、五七を繰り返し、最後に更に七音の句を添えるような形式のもの。反歌とは、五七五七七で詠まれ、長歌を要約したり補足したりする内容の歌です。
富士山の長歌はこのようなものです。
「天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ
神(かむ)さびて 高く貴(とうと)き
駿河(するが)なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を
天(あま)の原 振(ふ)り放(さ)け見れば
渡る日の 影(かげ)も隠(かく)らひ
照る月の 光も見えず
白雲(しらくも)も い行きはばかり
時じくそ 雪は降りける
語り継(つ)ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は」
(現代語訳:この世に、天と地ができた時から
神が宿って、高く、貴いさまで
駿河(現在の静岡県)にある 富士山の高い山頂を
天を振り仰いで眺めて見ると
富士山によって空を渡る太陽もさえぎられ
照る月の光も見えなくなり
白い雲も流れが滞り
絶え間なく雪が降っている。
語り伝えていこうではないか、高くそびえる富士山の姿を。)
逐語的に長歌を現代語訳していくと、句点がないので冗長になってしまいますが、要するに、富士山の威容を称える内容になっています。
長歌で、高くそびえる富士山の様子を、言葉を尽くして称えた後の反歌が「田子の浦ゆ…」の歌です。
この歌では、海に漕ぎ出して、海原から改めて富士山の姿を眺め、白く雪の積もる山頂を見て感動の思いを新たにしているのです。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」の鑑賞
「田子の浦ゆ」とは、「田子の浦を通りすぎて」の意味で、作者は舟で田子の浦を漕ぎ出し、広々とした海にいます。そして、振り返ってみると、田子の浦の港の向こうに、雄大な富士山がそびえています。
富士山の裾野は、田子の浦のある駿河湾の方までなだらかに広がっています。
その大きな富士山の山頂は、雪で真っ白に染まっており、海から見上げる作者の眼には、富士山が神宿る霊峰として映っているのでしょう。
海、そして神秘的な山が一幅の絵となって、この歌を読む人の目の前にもあらわれてくるようです。
山部赤人の和歌を代表するスケールの大きな「叙景歌」です。
(※叙景歌・・・自然の風物を主観を交えず客観的に表現した歌)
この歌は『万葉集』だけではなく、鎌倉時代の『新古今和歌集』にも収録されている!
実は、『新古今和歌集』冬の歌にも、この歌は入っています。また、かるた遊びでもおなじみの『小倉百人一首』4にも収められています。
『小倉百人一首』、『新古今和歌集』ともに、藤原定家という歌人が歌集の編纂をしています。
(藤原定家 出典:Wikipedia)
また、『万葉集』の歌とは、言葉が少し異なっています。
「田子の浦にうち出(い)でてみれば白妙(しろたえ)の 富士の高嶺(たかね)に雪は降りつつ」
- 「田子の浦ゆ」→「田子の浦に」
「田子の浦ゆ」は、「田子の浦の通りすぎ、海の広いところまで漕ぎ出して」の意味になり、「田子の浦に」だと「田子の浦の海岸からあまり離れないところに漕ぎ出して」というニュアンスです。
- 「真白にそ」→「白妙の」
「白妙」というのはもともとは、真っ白な布のことです。ここでは、「雪」にかかる枕詞(特定の語にかかり、歌の調子を調えたり、情緒を作り上げる働きをする)として用いられています。「真白にそ」より、「白妙の」の方が、より技巧的に洗練されているのです。
- 「降りける」→「降りつつ」
「降りける」と「降りつつ」は、微妙なニュアンスが違います。どちらも、降り積もった雪を詠っていることはおなじです。「降りける」は「雪が降っていることよ」というやや単純な詠嘆です。「降りつつ」というのは、今現在も降り続けている、雪が降っている様子を実際に見ているかのような表現です。
駿河湾の海岸から、雪化粧した富士山は見られますが、実際に雪が降っている様子、雪片が舞い散る様子はみえないでしょう。しかし、『新古今和歌集』の歌では、富士山の山頂に舞い散る雪を幻視したかのような表現になっているのです。
奈良時代の末期に成立している『万葉集』と、鎌倉時代初期に成立している『新古今和歌集』では、数百年の開きがあります。歌のスタイルも時代に合わせて変化しています。
藤原定家は、『万葉集』の「田子の浦ゆ…」の歌を、鎌倉時代の歌風に合わせて言葉を変えて『新古今和歌集』に収めたのでしょう。
作者「山部 赤人」を簡単にご紹介!
(山部 赤人 出典:Wikipedia)
山部 赤人(やまべ の あかひと)は、奈良時代の歌人です。位の高い人物ではなかったようで記録があまり残っていない謎の人物です。生年不祥、没年は 天平8年(736年)ごろとされます。
聖武天皇の代に、天皇を称える歌をはじめとした数々の歌が残っており、この時代の宮廷歌人であったことが推測されます。
同じく奈良時代の歌人、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)と並んで、「歌聖」「山柿両門」と呼ばれて称えられています。
自然の美しさや、雄大さを詠んだ、叙景的な歌が多く残されています。
「山部 赤人」のそのほかの作品
(赤人を祭神として祀る神社「和歌宮神社」 出典:Wikipedia)
- 春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける
- あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも
- 明日よりは春菜摘まむとしめし野に昨日も今日も雪は降りつつ
- 恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり
- 若の浦に潮満ち来れば潟を無み蘆辺をさして鶴鳴き渡る