【邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓】徹底解説!!意味や表現方法•句切れ•鑑賞文など

 

短歌の中には句読点が使われているものがあります。現代短歌に多いのですが、実は明治以降に書かれた近代短歌の中にもあります。

 

今回は、現代でも人気の高い釈迢空(折口信夫)の歌「邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓」を紹介します。

 

 

本記事では、「邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓」の詳細を解説!

 

邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓

(読み方:むらやまの まつのこむらに ひはあたり ひそけきかもよ たびびとのはか)

 

作者と出典

(釈迢空"折口信夫" 出典:Wikipedia)

 

この歌の作者は「折口信夫(おりぐち しのぶ)」です。

 

彼は明治から昭和にかけて活躍した民俗学者で、大学で民俗学の教鞭をとりながら短歌や詩、小説も書いていました。創作活動では「釈迢空(しゃく ちょうくう)」というペンネームを使っていて、民俗学者と創作者の面を使い分けていた人物です。

 

この歌の出典は「海やまのあひだ」です。

 

海やまのあひだは折口信夫の第一歌集で、釈迢空として作った歌が691首収められています。「海やまのあひだ」とは日本の村に暮らす人々の生活や人生という意味だとされています。

折口は民俗学の研究のために実際に日本の村々を訪ねて、その地の伝承や資料を収集することがあり、その中で短歌を作ることもよくありました。この歌集にもそうして詠まれた歌が多く見られます。

 

現代語訳と意味

 

この歌を現代語訳すると・・・

 

「里山の松の木立に、陽が差しこんでいてひっそりとしていることだよ。そこには旅人の墓があるのだ」

 

という意味になります。

 

折口の短歌には句読点や記号、一文字空白を入れるなどしたものが多く、詠嘆の場所や区切りを明確に表しています。これは当時としては新しい表現方法で、伝統的な短歌から脱却する彼の試みでした。また、折口の短歌は寂しさやわびしさを感じさせる歌が多い点も特徴です。

 

文法と語の解説

  • 邑山の

「むらやまの」と読みます。里山の、といった意味です。「邑」は「むら」と読み、人の手の入っている場所を表す漢字です。「邑山」は、人に手入れされている山という意味となります。

同じ読みをする「村」は人家が集まっている田舎の場所という意味です。そこに複数の民家があるかないかが「邑」との違いです。

 

  • 松の木むらに、

松の木立に、といった意味です。「木むら」は「こむら」と読み、漢字で「木叢」と書きます。木の群がり茂ったところを指す言葉です。

 

  • 日はあたり

日の光が当たって、といった意味です。

 

  • ひそけきかもよ。

ひっそりとしていることだよ、といった意味になります。「ひそけき」は形容詞「ひそけし」の連体形で、「ひそかに、静かに、目立たずに」という意味があります。

「かも」「よ」はともに詠嘆を表す助詞です。詠嘆を二回入れて、句の最後に「。」を置くことで、ひっそりとした静かな様子に折口信夫が深く感じ入ったことを表現しています。

 

  • 旅人の墓

旅をしていた人の墓という意味です。昔は旅の途中で行き倒れ、そのまま亡くなる人も少なくはなく、名前も分からないままにその地で埋葬されることがありました。この歌の墓も、そうして建てられた墓の一つと考えられます。

また、歌の最後は「旅人の墓」と体言止めで余韻を残しています。

 

「邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓」の句切れと表現方法

句切れ

この歌は作者の折口信夫自身が第四句の後に句点を置いているため、「四句切れ」です。

 

また歌の意味も、第四句で風景への詠嘆を表現していて一旦文に切れ目があります。

 

体言止め

第五句に体言止めが使われています。体言止めは歌にリズムを付けたり、歌全体を引き締める効果があります。またその言葉を強調して歌の余韻を残します。

 

この歌では「旅人の墓」と墓に注目して終わることで余韻を持たせ、読み手に印象づけています。

 

そのほか

この歌には「句読点」が使われています。当時の短歌では句読点は使いませんが、折口信夫は新しい表現方法として使用し、意図的に文を区切っています。

 

「むらやま」「こむら」は音を繰り返す音韻となっていて、歌にリズムを持たせています。

 

「邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓」が詠まれた背景

 

折口信夫は学者としてよくフィールドワークに出かけており、その調査の道行きで短歌を作ることもありました。この歌もそうした中で詠まれたものと考えられています。

 

「邑山」は人の手が入った山のことなので、近くには村があったのでしょう。

 

昔の村は一つの共同体で、村人とそれ以外の人ははっきりと分けられていました。村の近くで旅人が亡くなっていても村の中には埋葬できなかったので、当時の村人は村の外にある松の下に旅人の墓を立てたのでしょう。

 

折口信夫は民俗学者ですから松の木立にぽつんと建つ墓を見つけた時に、そうした村の事情を思ったのかもしれません。そして目立たずひっそりと建つ墓に日の光が当たっている様子に感じ入り、旅人に憐れみや寂しさを感じてこの歌を詠んだのではないでしょうか。

 

「邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓」の鑑賞

 

日の差す松の木立とそこにある旅人の墓という情景の静寂、無音の様子が印象的な歌です。「ひそけきかもよ。」という二重の詠嘆と句点からは、作者がそこで嘆息したようにも感じます。

 

句読点の使用が、作者が区切りを入れたい場面、重きを置いている部分を分かりやすくしています。この歌では「松の木むらに、」と一呼吸置くことで、まず読み手に松が集まって生えている風景を想像させます。暗い場所なのかと思いきや、次の部分でそこには日が当たっているのだと説明が入り、「ひそけきかもよ。」と詠嘆が表現されて区切られます。

 

句点によって通常よりも長い詠嘆を思わせ、最後に、そこまで作者を長く感じ入らせたものは何だったのか?それは旅人の墓だと明かして、深い余韻を残して歌は終わります。

 

終わりの「旅人の墓」は、旅人についても想像させます。目的地にたどり着けずに行き倒れた無念の気持ち、知らない土地で一人で死んでいく寂しさはいかほどだったでしょうか。近くの村人も孤独に死んだ旅人を悲しいと思って弔ったのでしょう。松の木立は雨風を防いでくれるかもしれず、そこに墓を建てたのは村人の優しさだったのかもしれません。

 

旅人の墓に当たる日差しは、柔らかく暖かなものだったのではないでしょうか。「ひそけきかもよ。」という詠嘆には、旅人に対する憐れみや寂しさの他に、作者の優しい目線も感じられます。

 

作者「折口信夫」を簡単にご紹介!

(釈迢空"折口信夫" 出典:Wikipedia)

 

歌人・折口信夫 (おりくち しのぶ) は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者です。

 

折口信夫は明治20年(1887年)に大阪で生まれました。父親が医者だったため、初めは医学を志しますが、その後転向し大学で国文学を学びます。民俗学の基礎を作ったとされる学者の柳田國男を尊敬して弟子となり、折口自身もまた民俗学に大きく貢献しました。折口は他にも芸能、歴史、神学なども研究しており、これらの彼が手がけた研究は総じて「折口学」と呼ばれています。

 

また、折口は「釈迢空」というペンネームで短歌も多く作りました。短歌には学生時代に興味を持ち作りはじめ、はじめは正岡子規が主宰する短歌会に所属していました。その後正岡子規の流れをくむ「アララギ」にも入りましたが、作風が合わずに脱退。後に北原白秋と短歌雑誌をつくっています。

 

折口は物静かな性格で、考えを一つ一つ積み上げて結論を出すタイプの学者でした。同時に独自の感性を持ち、型にはまらず新しいものを作ろうとする創作者でした。彼は昭和28年(1953年)に亡くなりますが、その思想は民俗学者としても創作者としても多くの人に影響を与え、現在も慕われています。

 

「折口信夫」のそのほかの作品

(「折口信夫生誕の地」の碑 出典:Wikipedia

 

  • 水底に、うつそみの面わ 沈透き見ゆ。来む世も、我の 寂しくあらむ
  • 葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
  • 桜の花ちりぢりにしもわかれ行く 遠きひとりと君もなりなむ
  • わが帆なる。熊野の山の朝風に まぎり おしきり、高瀬をのぼる
  • うす闇にいます仏の目の光 ふと わが目逢ひ、やすくぬかづく