明治、大正、昭和にかけて活躍したアララギ派の歌人「斎藤茂吉」。
歌人人生の中で18000首近い歌を発表している日本の近代歌人を代表する一人です。
今回は、斎藤茂吉晩年の名歌集『白き山』から「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」をご紹介します。
最上川 逆白波のたつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも 🍀 斎藤 茂吉 pic.twitter.com/fLPDEmoeLR
— 九州産業大学機械工学科 (@KSUMEC) May 14, 2017
本記事では、「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」の詳細を解説!
最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも
(読み方:もがみがわ さかしらなみの たつまでに ふぶくゆうべと なりにけるかも)
作者と出典
この歌の作者は、「斎藤茂吉(さいとうもきち)」です。
また、出典は昭和24年(1949年)発刊、『白き山(しろきやま)』です。
この歌集には、昭和21年(1946年)から昭和22年(1947年)の作がおさめられています。東京に住んでいた斎藤茂吉は、戦災を避けて故郷、山形県金瓶村に疎開しました。戦後、山形県大石田町にうつり、2年余りをすごしたのち東京に帰りました。
この歌は、大石田町で暮らしていたころの作品です。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「最上川には、強い風が下流の方向から吹き付け、水面に川の流れとは反対向きの白い波が立っている。こんな波が立つほどまでに、激しい吹雪の夕べとなったことだ。」
となります。
吹雪の日の荒々しい最上川の情景を写実的に詠んだ歌です。
荒々しくも雄大な自然の景観を力強く表現しており、斎藤茂吉晩年の作品の中でも代表的なもので、よく知られた一首です。
文法と語の解説
- 「最上川」
最上川は、山形県を流れる一級河川です。山形県米沢市と福島県の県境の吾妻山に源流を発し、酒田市で日本海に注ぎ込んでいます。
最上川は、富士川・球磨川とならんで、日本三大急流のひとつに数えられています。
- 「逆白波の」
「逆白波」とは、水の流れとは反対方向からの風で川の水面の水がまき上げられ、流れとは逆の方向に立つ波のことです。この歌で初めて用いられた言葉です。
「の」は格助詞です。
- 「たつまでに」
「たつまでに」は、動詞「たつ」の連体形「たつ」+副助詞「まで」+格助詞「に」です。
- 「ふぶくゆふべと」
「ふぶく」は、動詞「ふぶく」の連体形です。「ふぶく」とは、風が強く吹いて雪が乱れ降っていることです。
「ゆふべ」は夕方のことです。「と」は格助詞です。
- 「なりにけるかも」
「なりにけるかも」は、動詞「なる」の連用形「なり」+完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」+詠嘆の助動詞「けり」の連体形「ける」+詠嘆の終助詞「かも」です。
「けるかも」と、詠嘆の言葉を重ねて用いて、力強い印象をもつ歌です。
また、「けるかも」という言葉は『万葉集』に用例の多い言葉でもあり、万葉調の歌を混んだ斎藤茂吉らしい表現とも言えます。
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」の句切れと表現技法
(最上川 出典:Wikipedia)
句切れ
句切れとは、歌の中の大きな意味の切れ目のことです。
この歌に句切れはありませんので、「句切れなし」となります。最上川の荒々しい景色を一気呵成に切れ目なく読み上げた歌です。
表現技法
この歌の表現技法は特にありません。
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうふべとなりにけるかも」が詠まれた背景
この歌がおさめられている歌集『白き山』は、斎藤茂吉の16番目の歌集にあたります。
斎藤茂吉は東京に住んでいましたが、太平洋戦争の末期、昭和20年(1945年)3月の東京大空襲で焼け出されて、4月に生まれ故郷山形の金瓶村に疎開します。終戦を迎えた後、昭和21年(1946年)1月に山形県大石田町にうつり、2年近くをこの地で過ごしました。
歌集『白き山』には、この2年間の作がおさめられています。
敗戦の失意や、肋膜炎を患って療養の日々を送るなど、苦しい時間もありましたが、この歌集からは、つきることのない創作意欲・創意工夫を垣間見ることができます。最上川を題材に詠んだ歌は特に高く評価されています。
大石田町での斎藤茂吉の生活を支えたのは、弟子の板垣家子夫(いたがきかねお)という人物でした。板垣家子夫には、『斎藤茂吉随行記』という著作がありますが、以下に一部を引用します。
昭和二十一年二月下旬のある激しく吹雪く日の午後、茂吉が疎開先の大石田(北村山郡大石田町)で最上川にかかる橋を弟子の結城哀草果、板垣家子夫らと渡ったときである。
最上川には鳥海山おろしの強い北風が吹きつけ、川面に白波が立っていた。家子夫はこれを見て、何気なく言った。
「先生、今日は最上川に逆波が立ってえんざいっス (おります)」
茂吉はこれを聞くと思わず歩みをとめ、家子夫の腕を引っ張るようにして言った。
「君、今何と言った」
「はあ、今言ったながっす。はいっつぁ最上川さ、逆波立っているつて言ったなだっす」
茂吉はにらむようにして、強く言った。
「君はそれだからいけない。君には言葉を大切にしろと今まで何度も語ったはずだ。君はどうも無造作過ぎる。そうした境地の逆波という言葉は君だけのものだ.....大切な言葉はしまっておいて、決して人に語るべきものではないす」
(引用:斎藤茂吉随行記)
この板垣家子夫の記録から、「逆白波」という言葉は板垣家子夫の何気なく発した言葉をヒントにした斎藤茂吉の造語なのではないかと言われています。
「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうふべとなりにけるかも」の鑑賞
この歌は、急流最上川の日暮れ時の吹雪の様子を荒々しく力強く、写実的に詠んだ一首です。
「逆白波」とは、川の流れとは反対の方向から吹く強い風にあおられて水面にできる白い波です。見慣れない言葉ですが、イメージのしやすい造語であり、この歌の雰囲気をよく作り上げています。
また、「最上川」と「逆白波」だけが漢字表記である点も、波の激しさ、風の強さなど、荒々しさが感じられます。
時は夕刻で、天候は激しい吹雪、空はより一層暗くなり、雪も風も激しさを増していくのでしょう。厳しい寒さと、吹雪の猛威に不安な一夜を過ごすことになるのかもしれません。
自然の威力の苛烈なまでのすさまじさをシンプルな言葉で詠んだ、迫力のある一首です。
作者「斎藤茂吉」を簡単にご紹介!
(1952年頃の斎藤茂吉 出典:Wikipedia)
斎藤茂吉は山形で生まれ、東京で学び、精神科医として病院を経営しつつ、明治末期から昭和20年代後半まで活躍した歌人です。生年は明治15年(1882年)で、没年は昭和28年(1953年)です。
斎藤茂吉の生まれた家は山形県南村山郡金瓶村にありました。守谷伝右衛門熊次郎、母はいく、守谷家の三男でした。
茂吉は15歳の時に同郷の人物で、東京で開業医をしていた斎藤紀一の養子となります。斎藤家の家業である病院を継ぐために学び始めますが文学とも出会い、旧制第一高校時代には正岡子規の遺歌集『竹の里歌』を読みふけりました。のちに、正岡子規の門弟でもあった伊藤佐千夫に師事、雑誌『アララギ』で歌を発表するようになります。
その一方で、東京帝国大学医科大学を卒業。医師となり斎藤家の娘輝子と結婚します。斎藤家の家業を継ぎ、ヨーロッパに留学して精神科医となり、病院の経営にも力を注ぎました。
アララギ派の歌人としても第一歌集『赤光』が話題作となり、歌壇での地歩を固めます。『赤光』以降も多くの歌集や随筆集を出版、また古典文学をよく研究し、その方面の論文の発表もしました。
戦時中、戦災によって経営する病院も自宅も全焼し、東京から生まれ故郷の山形に疎開。そして戦後、病院長を引退します。
昭和26年(1951年)には文化勲章を受章、翌年には『斎藤茂吉全集』が発行されましたが、昭和28年(1953年)70歳で病没しました。
「斎藤茂吉」のそのほかの作品
- ただひとつ 惜しみて置きし 白桃の ゆたけきを吾は 食ひをはりけり
- 沈黙の われに見よとぞ 百房の 黒き葡萄に 雨ふりそそぐ
- みちのくの 母のいのちを 一目見ん 一目見んとぞ ただにいそげる
- 最上川の 上空にして 残れるは いまだうつくしき 虹の断片
- 死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ 天に聞ゆる
- のど赤き 玄鳥ふたつ 屋梁にゐて 足乳根の母は 死にたまふなり
- 猫の舌の うすらに紅き 手ざはりの この悲しさを 知りそめにけり
- ものの行 とどまらめやも 山峡の 杉のたいぼくの 寒さのひびき
- 信濃路は あかつきのみち 車前草も 黄色になりて 霜がれにけり
- うつせみの 吾が居たりけり 雪つもる あがたのまほら 冬のはての日