【清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

万葉の時代より親しまれてきた日本の伝統文学のひとつに短歌があります。

 

「五・七・五・七・七」の形式で詠む短歌には、歌人の心情を描く叙情的な作品が数多くあります。

 

中でも「恋の短歌」といえば、情熱の歌人として知られる与謝野晶子の作品を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

 

今回は彼女が残した名歌の中から、「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」をご紹介します。

 

 

本記事では、「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」の詳細を解説!

 

清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき

(読み方:きよみづへ ぎをんをよぎる さくらづきよ こよひあふひと みなうつくしき)

 

作者と出典

この歌の作者は、「与謝野晶子(よさの あきこ)」です。明治・大正・昭和と激動の時代を生きた女流歌人です。

 

鋭い自我意識に基づく自由奔放で官能的な歌風は、当時の歌壇に大きな影響を及ぼし、近代短歌に新しい時代を開きました。

 

この歌の出典は、1901年に刊行された第一歌集『みだれ髪』です。

 

自由な恋愛はおろか結婚も許されない時代に、満22歳という若い娘が大胆に性愛の悦びを表現したことで、社会に大きな衝撃を与えました。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「清水に行こうと祇園を通り過ぎると、桜が咲き誇る朧月夜。今夜すれちがう人々は、誰もみな美しく見えました」

 

という意味になります。

 

(※朧月夜"おぼろづきよ"・・・春の夜に月がほのかに霞んでいる情景を指す言葉)

 

夜の桜をぼんやりと照らす朧月が、なんとも幻想的な情景を描いています。京の春の一夜を、王朝的な雰囲気で歌い上げた美しい歌です。

 

「こよひ逢う人みなうつくしき」と感じるのは、作者自身の心も美しく、楽しいひと時を味わっているからでしょう。与謝野鉄幹との出会いによる、晶子の至福の情感や心浮き立たせている様子が伝わってきます。

 

文法と語の解説

  • 「よぎる」

「よぎる」は、「通り過ぎる」または「道すがら立ち寄る」を意味します。

 

  • 「桜月夜(さくらづきよ)」

「桜月夜」は、桜の咲く頃の月夜を意味しています。明るく華やかなイメージがある昼の桜とは対照的に、夜桜には神秘的で妖艶な風情を感じさせます。

「桜月夜」は、月がほのかに霞んでいる情景を表す「朧月夜」と「桜」を組み合わせた、与謝野晶子の造語とも言われています。

 

  • 「うつくしき」

「美し」の連体形である「美しき」を表しています。あえて漢字ではなく、ひらがなで表現したことで柔らかい印象を受けます。

 

「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことです。

 

この歌は三句目「桜月夜」で一旦歌の流れが止められていますので、「三句切れ」です。

 

句目までは夜空に浮かぶ朧月と頭上で咲き誇る桜の花を見上げていますが、四句目からは行きかう人々へ視線が下に移っていくのがうかがえます。

 

連体止め

連体止めとは、名詞に接続して連体修飾語で文を終える技法です。係助詞を用いずに連体形で結ぶと、その後に何か続くように感じられるため、強調や余韻を残す効果があります。

 

この歌も結句が「うつくしき」と連体形で締めくくっており、なぜ美しいと感じたのか理由は明かされていません。そのため、読み手はその後に続く「何か」を与えられた語から想像するようになります。

 

「祇園」や「桜月夜」から情景を思い浮かべると、夜桜を楽しむため着飾ってきた人々は、上気して満ち足りた表情をしていたのかもしれません。それを見て、作者自身が感じた「美しい」という主観的な気持ちを率直に詠んでいます。

 

字余り

字余りとは「五・七・五・七・七」の形式よりも文字数が多い場合を指します。この歌も「さくらづきよ」部分が六音で、字余りとなります。

 

あえてリズムを崩すことで、結果的に意味を強調する効果があります。

 

「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」が詠まれた背景

 

『みだれ髪』には妻子を持つ身であった与謝野鉄幹との情熱的な恋愛の過程で生み出された歌が多く収められています。その中で、晶子は積極的に人間性を肯定し、女性の官能をおおらかに歌い上げました。

 

京都といえば鉄幹が生まれ育った地でもあり、結婚前の二人が逢瀬を楽しんだ街でもあります。この歌も鉄幹と一緒に京都を訪れた際に詠んだ歌だといわれています。

 

もしかすると鉄幹と共に、夜桜見物へ行くところだったのかもしれません。晶子の満ち足りた気持ちや期待が、目に映る全てのものを美しく見せています。

 

激しい恋歌に満ちた歌集の中で、この歌は恋する若き女性の初々しさやみずみずしさが表現されています。

 

この歌に出てくる桜は、円山公園にあった「祇園しだれ桜」を詠んだのではないかといわれていますが、清水と祇園と桜の位置関係が事実と異なるようです。

 

そのため「桜月夜」は、のちに晶子自身によって「花月夜」に改稿されています。

 

しかし言葉の醸し出す印象からか、字余りであるにもかかわらず「桜月夜」のほうが支持されて広まっています。

 

「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」の鑑賞

 

この歌は、風情ある京都で、夜桜を楽しむ人が通り過ぎる道すがらの情景を詠んだ歌です。

 

「清水」「祇園」という言葉から、古都の情緒感じる街並みがイメージされます。男女の華やいだ装いや、こっぽりの音を響かせて、そぞろ歩くあでやかな舞妓の姿を彷彿とさせます。

 

行きかう人々ももちろん私自身も「みなうつくしき」との肯定が、晶子の高揚感を写しているようです。この心の弾みは、「春」「夜」「桜」によって引き出されたものでしょう。

 

春の宵闇が迫る頃、桜の花が満開に咲く幻想的な月夜のためか、いつもの景色が違って美しく見えてくるのです。「桜月夜」という雅な歌語が一首をまとめ、人々の装いだけでなく心にまで変化をもたらしています。

 

いくつもの障害を乗り越えて鉄幹との恋を貫こうとする晶子ですが、そんな情熱をひめて「桜月夜」を歩く一人の女性の姿が浮かんできます。

 

作者「与謝野晶子」を簡単にご紹介!

(与謝野晶子 出典:Wikipedia)

 

与謝野晶子(1878年~1942年)は、明治・大正・昭和にかけて活躍した女流歌人で、浪漫主義文学の中心的人物です。

 

歌人だけでなく作歌・思想家としての顔も持ち、『新釈源氏物語』の現代語訳でも知られ、婦人問題・教育問題への積極的発言など、当時の社会に大きな影響を与えています。

 

本名は与謝野(旧姓は鳳)志ようといい、ペンネーム晶子の「晶」は「志よう(しょう)」からとったものでした。1878年、大阪府堺市の老舗和菓子屋の三女として生まれ、堺女学校を卒業後は家業を手伝いました。

 

幼い頃から『源氏物語』など日本の古典文学に親しみ、「尾崎紅葉」や「樋口一葉」など著名な文豪小説を読みふけりました。こうした経験がのちの執筆活動に生かされることとなります。

 

1895年ごろから歌を雑誌に投稿し始め、関西青年文学会にも入会し、新しい短歌を作りました。1900年に開かれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と出会い、鉄幹が創立した文学雑誌『明星』で短歌を発表します。

 

鉄幹の後を追い実家を飛び出した晶子は、上京の約2ヵ月後に処女歌集『みだれ髪』を刊行します。慎ましやかな女性が求められた封建的な時代において、青春の情熱を誇らかに歌い上げ賛否の嵐をまき起こしました。

 

日露戦争中の1904年に発表した「君にたまふこと勿れ」では、従軍中の弟の身を案じ女性の立場から反戦を訴えます。批判をうけるなか、晶子は「誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」と延べ、一歩もひくことはありませんでした。

 

鉄幹と結婚後は、12人の子どもを育て上げました。貧しい生活の中で家計をささえるべく奮闘しながらも、生涯にわたり詩作や評論活動と活躍し続けました。

 

「与謝野晶子」のそのほかの作品

(与謝野晶子の生家跡 出典:Wikipedia