【駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

日本では、古代から、五・七・五・七・七の形式で和歌、短歌が詠み継がれてきました。

 

自然の美しさやすばらしさ・人生の哀歓・生活の中の感興など、歌人は繊細な心の動きを数多の名歌に詠みこんできました。

 

今回は、鎌倉時代に編纂された勅撰和歌集「新古今和歌集」のから「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」という歌をご紹介します。

 

 

本記事では、「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の詳細を解説!

 

駒とめて 袖うちはらふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

(読み方:こまとめて そでうちはらふ かげもなし さののわたりの ゆきのゆうぐれ)

 

作者と出典

この歌の作者は「藤原定家(ふじわら さだいえ/ていか)」です。定家は新古今和歌集』の撰者の一人でもある歌人です。

 

この歌の出典は『正治初度百首』と『新古今和歌集』(巻六 冬 671などです。

 

『新古今和歌集』は、建仁元年(1201)の自らもすぐれた歌人であった、後鳥羽院の命により編纂された日本で8番目の勅撰和歌集です。藤原定家は、後鳥羽院の歌壇の中心人物であり、『新古今和歌集』の撰者のひとりにも選ばれました。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「馬を止めて、袖についた雪を払い落すことのできそうな物陰もないことよ。佐野の渡し場あたりは、雪の中、夕暮れていく。」

 

となります。

 

雪の中進んでいく旅人の姿を客観的にとらえて詠んだ歌です。寒々しく、荒涼とした景色に風情を見出す『新古今和歌集』を代表する歌のひとつです。

 

文法と語の解説

  • 「駒とめて」

「駒」は馬。馬に乗って、旅をしている人の歌です。「とめて」は動詞「とむ」の連用形「とめ」+順接接続助詞「て」です。

 

  • 「袖うちはらふ」

「うちはらふ」は動詞「うちはらふ」連体形です。さっと払いのけるという意味になります。

 

  • 「かげもなし」

「も」は主格の格助詞です。「なし」は形容詞「なし」終止形です。

 

  • 「さののわたりの」

「さの」は地名なのですが、紀伊国の佐野の渡り(和歌山県新宮市)・大和国の狭野(奈良県桜井市)などの説があります。

「の」は連体修飾格の格助詞です。

 

  • 「雪の夕暮れ」

「の」は連体修飾格の格助詞です。

 

「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中の意味の切れ目のことで、普通の文でいえば句点「。」がつくところになります。リズム上でも少し間合いを取って読むところになります。

 

詠嘆を表す助動詞や助詞(けり、かな、も、よ など)のあるところ、動詞、形容詞、形容動詞、助動詞などの終止形、終助詞、係り結びのあるところなどに注目していくことで句切れが見つかります。

 

この歌は三句目「かげもなし」のところで句点がつき切れますので、「三句切れ」です。

 

この歌は、華やかなるものが何もない、わびしい風情を詠んだ歌ですが、「駒とめて袖うちはらうかげもなし。」でいったん切れることで、あたりを見回し、あたりの静寂さや荒涼たる光景を確認しているような印象を与えています。

 

本歌取り

「本歌取り」とは、有名な先行の歌(=本歌)を下敷きに、先行の歌の言葉を引用したり、その情緒を援用したりして、新たに歌を詠むことです。

 

この「駒とめて…」の歌は、『万葉集』の長忌寸意吉麻呂(ながのいきおきまろ)の歌が本歌になっています。

 

苦しくも降り来る雨か三輪が崎狭野(さの)のわたりに家もあらなくに

(意味:苦しいことに、雨まで降ってきたことだ。三輪が崎の佐野の渡し場には、雨宿りができるような家もないというのに。)

※三輪が崎狭野は、紀伊国(和歌山県新宮市)の地名。

 

旅にあって、悪天候に悩まされ、身を寄せてやり過ごすところがないという様子を詠んでいるところ、「狭野のわたりに家もあらなくに」という下の句が少し言葉を変えて取り入れられています。

 

本歌は、「雨」で「家も」ない、と詠んでいるところを、定家は「雪」で「かげ」すらない、としています。本歌よりもさらに厳しい光景を詠んでいることになります。

 

「秋の夕暮れ」の体言止め

体言止めとは、一首の終わりを体言・名詞で止める技法です。余韻を持たせたり、意味を強める働きがあります。

 

雪の夕暮れ」と名詞でこの歌を止めることで、寒々としてわびしい雰囲気を、余韻をもって読者に伝えています。

 

「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の鑑賞

 

この歌は、『万葉集』の歌の本歌取りの歌です。(※後で説明します)

 

本歌は、雨に降られて行き悩む旅人の歌ですが、「駒とめて…」の歌は、雪の景色の歌としました。雪の歌にしたことで、雨の歌よりも、歌に詠まれる景色の色彩がぐっと減ってきています。さらに、本歌では「家もあらなくに」と詠っていますが、定家は「かげもなし」としました。家どころかものかげすらもない、荒涼とした景色です。

 

本歌もけっして華やかな風情や心湧きたつ情を詠った歌ではありませんが、それをさらに極めて、寂寞とした歌に仕上げているのです。

 

また、本歌が「苦しくも」と旅人である作者の気持ちを主観的に詠んでいるのに対し、「駒とめて…」の歌は、主観を排し、絵を描くかのように客観的に情景を詠みこんでいることも大きな特徴です。

 

馬に乗って進む旅人、袖にも積もる雪、雪が降りしきって一休みできるような物陰もない、モノトーンの世界です。

 

実際の旅の実景を詠んだ歌なのではなく、耽美的、幻想的な雪の中の旅人の姿を思い浮かべて詠んだ歌なのでしょう。

 

花鳥風月の美しさではなく、余計なものを徹底的に排し、寂しい、寒々しい景色を歌の中で表現して、そこにある風情を見出すのです。

 

このような美意識は、鎌倉時代以降重んじられる「わび」や「さび」につながる感覚でした。

 

「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」が詠まれた背景

 

この歌は、そもそも『正治初度百首(しょうじしょどひゃくしゅ)』で藤原定家が詠んだ歌です。

 

【補足】

~百首』という歌集を、百首歌(ひゃくしゅうた)といいます。100首単位で、数を定めて歌人が歌を出し合います。勅撰和歌集選集のための資料として、天皇や上皇から詠進の下命が下り、作られることが多くありました。また、寺社へ奉納するために百首歌が詠まれることもありました。

 

『正治初度百首』は、正治二年(1200)夏に後鳥羽院から当代の高名な歌人に詠進の下命があり、その年の11月に披露されました。後鳥羽院、藤原俊成、藤原家隆、藤原定家、寂連など、そうそうたるメンバーがそれぞれ100首の歌を詠みました。

 

この「駒とめて…」の歌は『新古今和歌集』の時代の歌の代表作としても有名な歌です。

 

この時代の歌のスタイルとして、本歌取り、三句切れ、体言止めがよく用いられるといわれますが、この歌もその一つです。

 

また、華やかなるもの、美しいものをあえて排し、あるがままのもの、素朴なものに風情を見出す感覚も、この時代の歌の特徴です。

 

また、定家の歌には以下のような歌もあります。

 

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

(意味:見渡してみると、美しい花も色彩豊かな紅葉も見えないことだ。粗末な小屋のみがある浜辺の秋の夕暮れよ。)

 

これは、文治2(1186)、西行法師の勧進による「二見浦百首」(ふたみがうらひゃくしゅ)と言う歌集に初出の歌です。「駒とめて…」の歌よりも14年ほど前の作になります。

 

この歌でも、華美なものを否定し、寂寞とした、愁いのある秋の夕暮れに風情を見出して歌を詠んでいます。

 

「見渡せば…」「駒とめて…」、どちらの歌も建仁元年(1201)の『新古今和歌集』に入集しました。

 

華やかなもの・色彩などを排し、つましさ・寂しさ・荒涼寂寞とした情緒の中に風情を見出していく感覚は、わびやさびにつながっていき、茶の湯などの芸能でその後もてはやされるようにもなりました。

 

作者「藤原定家」を簡単にご紹介!

(藤原定家の肖像画 出典:Wikipedia

 

藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)は、平安時代終わりころ、応保2(1162)の生まれとされます。平安時代末期のから鎌倉時代初期に歌人として活躍した公家です。

 

父は藤原俊成(しゅんぜい・としなり)で、俊成も勅撰和歌集の撰者となるなど、和歌の第一人者でした。姪にあたる、藤原俊成女(ふじわらのしゅんぜいのむすめ)も、この時代を代表する女流歌人です。

 

定家の家は、世に認められた歌人の家柄ではありましたが、貴族としては中流でした。定家は20代のころから、名門の九条家に家司(けいし。上流貴族、皇族の家の家政をあずかる職員。)として仕え、ここで当時の高名な歌人らと交流を持ち、歌を詠むようになります。

 

後鳥羽院にも歌才を認められ、建仁元年(1201)には、勅撰和歌集『新古今和歌集』の撰者のひとりに選ばれました。定家は、後鳥羽院やその息子順徳天皇の歌壇の重要なメンバーの一人でしたが、承久二年(1220)、歌会での作が、後鳥羽院の不興を買うことになり、謹慎を命じられます。

 

その後、政争にやぶれた後鳥羽院の失脚により、謹慎していた定家も、再び歌人として世に出るようになりました。しかし、晩年まで定家は後鳥羽院、順徳院の恩、歌人としての尊敬を忘れることはなかったようです。

 

貞永元年(1232)、後堀河天皇から勅撰和歌集編集の命が下り、3年の歳月をかけて『新勅撰和歌集』を編集しました。このころすでに定家は70代の高齢でした。仁治2(1241)80歳で死去しました。

 

「藤原定家」のそのほかの作品

Teika-jinja torii.jpg

(藤原定家を祀る定家神社 出典:Wikipedia)

 

  • 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
  • 春の夜の 夢の浮き橋 途絶えして 嶺に分かるる 横雲の空
  • 来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
  • かきやりし その黒髪の すぢごとに うちふすほどは 面影ぞたつ
  • 大空は 梅のにほひに かすみつつ 曇りもはてぬ 春の夜の月
  • 旅人の 袖ふきかへす 秋風に 夕日さびしき 山の梯(かけはし)