【見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

古典文学の時代から連綿と続く和歌の世界。いにしえ人は花鳥風月の美しさを和歌に詠み、愛でてきました。

 

和歌を詠むことは、平安時代・鎌倉時代の上流階級の人々にとっては必須の教養でした。国家事業として和歌集が編纂されてもいました。

 

その中で、天皇の命令によって編纂された和歌集を勅撰和歌集と言います。

 

今回は、鎌倉時代に編纂された勅撰和歌集「新古今和歌集」の中のあまりにも有名な一首「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」をご紹介します。

 

 

本記事では、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」の詳細を解説!

 

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

(読み方:みわたせば はなももみじも なかりけり うらのとまやの あきのゆうぐれ)

 

作者と出典

この歌の作者は「藤原定家」です。平安時代末期、鎌倉時代初期を代表する歌人です。

 

この歌の出典は『新古今和歌集』秋上・363 ・『二見浦百首』秋など

 

『新古今和歌集』は、建仁元年(1201)の後鳥羽院の命により編纂された日本で8番目の勅撰和歌集です。

 

勅撰和歌集とは、天皇や上皇()の命令で編集される和歌集のことで、国家事業として歌集が作られるのです。

 

藤原定家は、『新古今和歌集』の撰者のひとりに選ばれました。勅撰和歌集に作品が入集することも大変な名誉であるのに、さらにその選者に選ばれるというのは歌人としての才能が本当に認められているということの証でもありました。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「見渡してみると、美しく咲く花も見事な紅葉も見たらないことだよ。浜辺の粗末な漁師の小屋だけが目に映る、なんともわびしい秋の夕暮れであることよ。」

 

となります。

 

平安時代までの和歌では、美しく咲く花や見事な紅葉、すばらしい花鳥風月を美しい言葉でうたい上げることが主流でしたが、この歌は「花も紅葉も」否定をしています。

 

和歌に詠まれてしかるべき美しいものの存在を否定したところに、価値を見出しているのです。

 

文法と語の解説

  • 「見渡せば」

動詞「見渡す」の已然形「見渡せ」+順接の確定条件を表す接続助詞「ば」です。

 

  • 「花も紅葉も」

どちらの「も」も係助詞です。同類のものを並列、列挙するはたらきを持ちます。

 

  • 「なかりけり」

形容詞「なし」の連用形「なかり」+詠嘆の助動詞「けり」終止形です。

 

  • 「浦の苫屋の」

「浦」は浜辺のこと。「苫屋」は苫で屋根を葺いた粗末な家で、漁師の家です。苫とは、チガヤやアシなどのイネ科の植物で編んだむしろのようなものです。

 

  • 「秋の夕暮れ」

「の」は連体修飾格の格助詞です。

 

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、普通の文でいえば句点「。」がつくところでの意味の切れ目です。リズム上でも少し間合いを取って詠むところになります。

 

詠嘆を表す助動詞や助詞(けり、かな、も、よ など)のあるところ、動詞、形容詞、形容動詞、助動詞などの終止形、終助詞、係り結びのあるところなどに注目していくことで句切れが見つかります。

 

この歌は「なかりけり」の「けり」が詠嘆を表す助動詞であり、ここで切れます。三句のところで切れるので、三句切れです。

 

詠嘆の助動詞「けり」は、「~だなあ」「~だよ」と言う古来の意味です。

 

この歌の「花も紅葉もなかりけり」というのは、「花も紅葉もないことだよ」ということです。目に留まる華やかなものが何もない、と言うことに作者は強い興味を覚え、その雰囲気を歌にしようとしているのです。

 

体言止め

この短歌で使われている表現技法は、「秋の夕暮れ」の体言止めです。

 

体言止めとは、一首の終わりを、体言、名詞で止めることで余韻を持たせたり、意味を強める働きがあります。

 

「秋の夕暮れ」と名詞でこの歌を止めることで、寂寞としたわびしい雰囲気を余韻をもって読者に伝えています。

 

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」が詠まれた背景

 

この歌の初出は、文治2(1186)、西行法師の勧進による「二見浦百首(ふたみがうらひゃくしゅ)」と言う歌集です。

 

西行法師の求めにより、伊勢神宮に奉納するために詠まれた100首の歌のなかの一首です。このとき、定家は25歳くらいでした。

 

歌題となるべき「花も紅葉も」否定したところに風情を見出し、それを歌に詠みこむ感覚は、当時としてはあたらしいものでした。似たような趣向の歌を、定家は他にも詠んでいます。

 

「み吉野も 花見し春の けしきかは 時雨るる秋の 夕暮の空」

(意味:桜の名所と言われる吉野も、花見をするような春の景色ばかりがすばらしいのではない。時雨ふる秋の夕暮れの空の風情もまたすばらしいものである。)

 

吉野とは、奈良県の吉野山のことで、桜の名所として知られていました。その吉野の桜を否定して、時雨の降る夕暮れの空を、定家はよしと詠んだのです。

 

「二見浦百首」で「見渡せば…」の歌を詠んでから、15年余りたって後鳥羽院下命による勅撰和歌集『新古今和歌集』が編纂されるわけですが、この歌集には、「三夕」(さんせき)と呼ばれる三首の有名な歌があります。

 

寂寞とした、愁いのある秋の夕暮れを詠んだ三首の歌で、どの句も三句で「~けり」と木切れ、結句が「秋の夕暮れ」と結ばれる歌です。

 

さびしさはその色としもなかりけり 真木立つ山の秋の夕暮れ(寂蓮法師 秋上・361)

(意味:寂しいと言って、目に見えてはっきりするものがあるわけでもない。はなやかな紅葉もない、杉やひのきが茂る山の、秋の夕暮の寂しさが身に染みるよ。)

心なき身にもあはれ知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行法師 秋上・362)

(意味:世を捨て、法師となり、煩悩を捨てて無心となる私のような者にも、あわれな趣は身にしみて感じられるものである。シギが飛び立っていく秋の夕暮れの景色はあわれ深いものだ。)

見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(藤原定家 秋上・363)

(意味:見渡してみると、美しく咲く花も見事な紅葉も見たらないことだよ。浜辺の粗末な漁師の小屋だけが目に映る、なんともわびしい秋の夕暮れであることよ。)

 

この三首の中でも最も有名なのが「見渡せば…」であるといえるでしょう。

 

秋の夕暮れの「もののあはれ」を詠う感覚や、寂寞としたものに風情を見出す感覚はその後の文学や芸能にも影響を与えました。

 

また、鎌倉時代の有名な随筆『徒然草』には、このような文章があります。

 

「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。」

(意味:花は盛りの時を、月は皓々と照る満月のみを美しいものとみなしてもてはやすべきものなのであろうか。けっしてそうではあるまい。雨の夜に見ることのできない月のことを思い、引きこもって春の花咲く野辺の様子を知らぬというのもまた、あわれ深く、情趣に富んだものである。もうじき花が咲くであろう桜の梢、逆に花が散りしおれてしまった庭の様子も、見ごたえのあるものである。)

 

美しい花や見事な満月を否定し、華やかではないものに価値を見出す感覚が受け継がれています。

 

華美なものを排し、あるがままのものの素朴さや、つましさに美を見出すわびやさびと言った感覚は、茶の湯などの芸能でその後もてはやされるようにもなりました。

 

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」の鑑賞

 

平安時代の和歌の常識としては、美しい花や見事な紅葉と言った花鳥風月を中心に和歌を詠むことが当たり前でした。

 

しかし、この歌は、「花も紅葉もなかりけり」と、歌の中にあるべき、美しいものを否定しています。

 

寂寞とした秋の夕暮れの浜辺の風景を詠んだこの和歌の感覚は、鎌倉時代から言われるようになる、「わび」や「さび」といった観念の端緒ともいえるものでした。

 

「見渡せば花も紅葉も」と歌いだすことで、読者は一瞬色鮮やかな花や紅葉を思い浮かべます。それを「なかりけり」と強い調子で否定し、「浦の苫屋」というなんとも寂寞としたものを提示します。

 

一瞬、「花や紅葉」といった華やかなものを思い浮かべた後だけに、モノトーンの「浦の苫屋」のわびしさが際立ちます。

 

時は「秋の夕暮れ」、しんみりとした愁い漂う歌となっています。

 

作者「藤原定家」を簡単にご紹介!

(藤原定家の肖像画 出典:Wikipedia

 

藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期を生きた、公家の歌人です。

 

藤原北家の御子左家(みこひだりけ)の生まれで、父は藤原俊成(しゅんぜい・としなり)です。父俊成も高名な歌人でした。

 

定家は応保2(1162)の生まれと言われます。若くして父俊成から歌才を認められました。

 

定家の家は、貴族ではありましたが中流階級で、定家は20代のころから、九条家という名家に家司(けいし。上流貴族、皇族の家の家政をあずかる職員。)として仕え、当時の高名な歌人らと交流し、歌集や歌合せに出詠するようになります。

 

その後、後鳥羽院の愛顧を受けるようになります。建仁元年(1201)には、後鳥羽院の命により、勅撰和歌集『新古今和歌集』の撰者のひとりに選ばれました。当世の歌人の第一人者として認められたのです。

 

定家は、後鳥羽院やその息子順徳天皇の歌壇の重要なメンバーの一人として活動していましたが、承久二年(1220)、歌会での作が、後鳥羽院の不興を買うことになり、謹慎を命じられます。

 

しかしその後、後鳥羽院は失脚、謹慎していた定家は西園寺家や九条家と言った名門貴族の引き立てにより、再び歌人として世に出るようになりました。

 

貞永元年(1232)、後堀河天皇から勅撰和歌集編集の命が下り、3年の歳月をかけて『新勅撰和歌集』を編集しました。このとき定家はすでに70歳を超える高齢でした。

 

仁治2(1241)80歳で死去しました。

 

「藤原定家」のそのほかの作品

Teika-jinja torii.jpg

(藤原定家を祀る定家神社 出典:Wikipedia)

 

  • 春の夜の 夢の浮き橋 途絶えして 嶺に分かるる 横雲の空
  • 来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ
  • 駒とめて 袖うちはらう 陰もなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ
  • かきやりし その黒髪の すぢごとにうちふすほどは 面影ぞたつ
  • 大空は梅のにほひにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月
  • 旅人の袖ふきかへす秋風に夕日さびしき山の梯(かけはし)