【正岡子規の有名短歌 30選】明治時代の代表歌人!!短歌の特徴や人物像・代表作など徹底解説!

 

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」、現代にも知れ渡る著名なこの句は正岡子規の作品です。

 

俳句の革新運動に取り組んだりと俳人としての名が主な彼ですが、実は俳句だけでなく短歌も多く詠んでおり、短歌界においても大きな影響をもたらしました。

 

今回は、そんな「正岡子規(まさおか しき)」の有名短歌を30首ご紹介します。

 

 

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ぜひ最後まで読んでください!

 

正岡子規の生涯や人物像・作風

(正岡子規 出典:Wikipedia

 

正岡子規は1867年(慶応3年)、伊予国・現在の愛媛県出身の文学者です。

 

亡くなる1902年(明治35年)まで日本の近代文学に多大な影響を及ぼし、明治を代表する文学者の一人です。子規は俳人、歌人、研究者と複数の顔を持ち合わせ、俳句・短歌以外にも随筆や小説、評論の執筆などその活動は多岐に渡ります。

 

そんな文学者としての力に溢れた子規の歌風は、徹底された「写生(しゃせい)」です。

(※写生・・・自然や事物を実際に見たままに描くこと)

 

 

目に映る描写を淡々と詠みながらも、独自の視点を織り交ぜた作品らに多くの歌人が影響を受けました。そして、その世界観と切っても切り離せない事柄が自身の病であり、「死」でした。

 

虚弱体質であった子規は当時不治の病と言われていた結核を患っていました。喀血する自身と、口内の赤さから「鳴いて血を吐く」と言われていたホトトギスとをかけ、「子規(ほととぎす)」という雅号を用いています。寝たきりの状態を強いられた子規の歌は、大半が療養する部屋からであり、死期が近づくにつれその写生的表現の中にも死が大きく影を落としていきます。

 

弱々しい印象を受ける一方で、子規は熱心な野球愛好家としても知られ、野球を題材に作品を詠むことは勿論、自身で競技に興じていたりと当時新しい風であった野球の普及に貢献しています

 

(プレイヤー引退直前の1890年3月末に撮影された子規 出典:Wikipedia)

 

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後にその功績が認められ、東京都上野恩賜公園内にあった球場を「正岡子規記念球場」との愛称へ、そして出身である愛媛県松山には野球資料館「の・ボールミュージアム」が今現在もその姿を残しています。

 

正岡子規の有名短歌【30選】

 

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ここからは、正岡子規のおすすめ短歌を30首紹介していきます!

 

正岡子規の有名短歌【1〜10首

 

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子規の代表作の一つです。1尺の長さは約30cmなので、2尺では60cm程度です。56月が開花時期であるバラの育ち始めている様子を、棘の柔らかさや春雨で表現しています。

 

【NO.2】

『 隅田てふ 堤の桜 さけるころ 花の錦を きてかへるらん 』

【意味】隅田町の堤の辺りに桜が咲いた頃、(あなたは)桜の花弁の錦を纏って帰ってくることであろう。

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東京の友人に宛てた手紙に書かれた一首で、子規が生涯で初めて作った短歌と言われています。桜並木を歩く友人の体に散った桜が乗り、その様が桜柄の着物を纏うように見えるであろうと詠んでいます。

 

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この歌は、子規の死後にまとめられた遺稿集「竹乃里歌」出典、521日に作られた連作10首の内の一つです。目立つ表現技法は用いられておらず、その観察眼と繊細さの際立ったシンプルながら秀逸な写生歌です。

 

【NO.4】

『 松の葉の 葉さきを細み 置く露の たまりもあへず 白玉散るも 』

【意味】先の細い松の葉では、ついた露も堪えきれず白玉のように落ちて散ることよ。

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NO.2】に続き、松の葉の連作の一つです。当時脊椎カリエスに体を蝕まれていた子規は、寝たきりの状態で自室から見える景色を歌に詠んでいました。この連作も同じ時期にしたためられたもので、葉から露の落ちるのを時間をかけて眺めていたであろうその様子からは、静かな時の流れが感じられます。

 

【NO.5】

『 庭中の 松の葉におく 白露の 今か落ちんと 見れども落ちず 』

【意味】庭にある松の木の葉に乗った露が、今まさに落ちる。

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上記二首と同じく、松の葉の連作の一つです。この歌を発表した翌年、随筆「墨汁一滴」にて「かつての歌人が見出してこなかった松の葉の魅力に気が付くことが出来、またそれを歌に詠めたことを誇らしく思った」と語っています。糸杉に魅了された画家フィンセント・ファン・ゴッホも、「何故こんなにも素晴らしいものを誰も描いてこなかったのか」と似た主旨の発言を残しており、新たな趣向や発見が芸術家にとっての喜びであったことが窺い知れます。

 

【NO.6】

『 人も来ず 春行く庭の 水の上に こぼれてたまる 山吹の花 』

【意味】人の来ないような、春が過ぎた庭の水溜まりに、散った山吹の花が溜まる。

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春が過ぎ、花々の色が散り失せ寂しくなった庭に、山吹の花の黄色が彩りを与えることでかつての息吹の面影を思い出させる、絵画のような一首です。

 

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病により寝たきりであった子規の視点ならではの歌で、下から花瓶を見上げた際の様子が詠まれています。咲き盛りの藤の描写が鮮やかで、病に冒されながらも鬱々とした印象を受けない色彩豊かな一首です。

 

【NO.8】

『 藤なみの 花をし見れば 紫の 絵の具取り出で 写さんと思ふ 』

【意味】藤の花を見たなら、紫の絵の具を取り出しその様を写したいと思う。

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「藤なみ」は「藤波」と書き、万葉集では多く用いられた藤を指す言葉です。子規は俳句や短歌に留まらず、絵を描くことでも知られており、その熱意は病床にあっても衰えることはありませんでした。

 

【NO.9】

『 藤なみの 花の紫 絵にかゝば こき紫に かくべかりけり 』

【意味】藤の花の紫を絵に描くのであれば、濃い紫で表現するのが良いであろうなあ。

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前述の藤の花に関する二首同様、随筆「墨汁一滴」に発表された十首連作の内の一つです。これら連作の最後には、体調が芳しくないながらも気の向くままに筆を走らせることが出来、風情のある一夜を過ごせたとの旨が添えられています。

 

【NO.10】

『 足たたば 北インジヤの ヒマラヤの エヴェレストなる 雪くはましを 』

【意味】もしも立つことが出来たなら、北インドのヒマラヤにあるエベレストという山の雪を食べたことであろう。

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病により立つことが出来なくなっていた子規ですが、そのやるせなさを「立てたならばエベレストの雪を食べたであろう」と、ユーモアと愛嬌のある言い回しで表現しています。

 

正岡子規の有名短歌【11〜20首

 

【NO.11】

『 久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも 』

【意味】遥か遠くのアメリカ人が始めた、ベースボールというものは見ていて飽きないものだ。

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野球好きとして知られる子規の野球愛の感じられる一首です。観戦だけでなく競技に参加することも好んでいたようで、自身が倒れるまで試合を続けたという逸話が残っています。

 

【NO.12】

『 九つの 人九つの 場を占めて ベースボールの はじまらんとす 』

【意味】9人が9つのポジションにつき、ベースボールが始まろうとしている。

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試合開始に沸き立つ子規の興奮と緊張とが読み手に伝わる、生き生きとした感情に溢れた歌です。野球への情熱は目を見張るものがあり、本名である「升(のぼる)」と「野球」とをかけ、「の()ぼーる()」という雅号を名乗るほどの熱中振りだったと言います。

 

【NO.13】

『 十四日、オ昼スギヨリ、歌ヨミニ、ワタクシ内へ、オイデクダサレ 』

【意味】14日、お昼過ぎより歌を詠みに私の家においで下さい。

短歌職人
門人・岡麓(おかふもと)へ送ったハガキに子規がしたためたもので、一見するとただの手紙のようですが、それすらも作品に仕上げたユニークな一首です。

 

【NO.14】

『 佐保神の 別れかなしも 来ん春に ふたたび逢はん われならなくに 』

【意味】佐保神との別れは悲しく思われる。巡り来る次の春に、再び逢えるこの身では無いものを。

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「佐保神」は春の女神である佐保姫のことを指し、春が過ぎることを彼女との別れと表現しています。擬人的な言い回しにより、自身の残り僅かな命とその別れがより一層切なく思われます。

 

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空に散らばる無数の星の中で一際輝く星を見つけ、それをそのまま「明るい」とはせず、「吾に向ひて」と表現する子規の発想の巧みさが感じられる一首です。

 

【NO.16】

『 たらちねの 母がなりたる 母星の 子を思う光 吾を照らせり 』

【意味】母星となった母親の子を思う光が私を照らしている。

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NO.15】に続く、十首連作の内の一つです。前述の「吾に向ひて光る星」を、この歌では具体的に子を思う母星であると詠んでいます。我が子を思う母の温かく、優しい光が子規の心に降り注いでいたことでしょう。

 

【NO.17】

『 あら玉の 年のはじめの七草を 籠に植えて来し 病めるわがため 』

【意味】年の初めの七草を籠に植え持ってきた、病床に伏す私のために。

短歌職人
短歌の弟子である岡麓が籠に植えた七草を持って新年の挨拶にやってきたことを詠んだ歌です。随筆「墨汁一滴」によると、麓はそれぞれの草に名前を記した札を立てていたそうで、それら細やかな気遣い、弟子からの心尽くしに大層喜んだことでしょう。

 

【NO.18】

『 いたつきの 閨(ねや)のガラス戸 影透きて 小松が枝に 雀飛ぶ見ゆ 』

【意味】病で寝たきりの部屋にあるガラス戸から姿が透けて、小さな松の枝に雀の飛ぶ姿が見える。

短歌職人
高浜虚子らの計らいにより子規の臥す部屋にガラス戸が入れられ、子規は寝たきりながらも庭の様子を眺めることが出来るようになりました。大変喜んだ子規は、そこから望む景色をこの歌以外にも詠み残しています。

 

【NO.19】

『 朝な夕な ガラスの窓に よこたはる 上野のの森は 見れど飽かぬかも 』

【意味】朝夕と関係なくガラス窓に横たわっては上野の森を見ているが、飽きないものである。

短歌職人
贈られたガラス戸を甚く気に入っている様子が詠まれています。閉鎖的な自室だけが世界であった子規にとって、外界を覗くことの出来るガラス戸は新鮮であり、新しい郷への入り口に思えていたことでしょう。

 

【NO.20】

『 常臥に 臥せる足なへ わがために ガラス戸張りし 人よさちあれ 』

【意味】寝たきりで足の動かせなくなっていた私のために、ガラス戸を張ってくれた人に幸せが訪れることを。

短歌職人
当時、ガラスは大変貴重且つ高価な素材であったため、一般には浸透していない代物でありました。そのガラスを用いた価値ある戸を用意してくれた虚子らへの感謝をこの歌では詠んでいます。その喜びからか多くの名歌が誕生したのもこの時期と言われています。

 

正岡子規の有名短歌【21〜30首

 

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いちはつ(一初)の花の開花時期は4月下旬から5月下旬にかけてで、咲き盛る頃には春から夏へと季節が移りつつあります。夏の到来を感じ、過ぎた春が自身にとって最後になるかもしれない、そんな悲壮感が漂ってきます。

【NO.22】

『 くれなゐの 梅ちるなべに 故郷に つくしつみにし 春し思ふゆ 』

【意味】紅色の梅が散るにつれ、故郷でつくしを摘んだ春が思い出される。

短歌職人

「今年ばかりの春行かんとす」と詠んだ翌年、子規にもう一度春が訪れますが、病状の悪化により、お気に入りであったガラス戸から庭を見ることも叶わなくなります。そんな子規のため、伊藤左千夫が紅梅の下につくしを植えた

盆栽を贈っています。その盆栽から生まれた内の一首がこの歌です。

【NO.23】

『 小縄もて たばねあげられ 諸枝の 垂れがてにする 山吹の花 』

【意味】小縄で結いあげられ、多くの枝が垂れにくいようにされた山吹の花よ。

短歌職人
4月30日に掲載された山吹の花の連作十首の内の一つです。「小縄でたばねあげられ」た理由として、恐らく人の出入りの多い場所に山吹の花が咲いており、通行人の邪魔にならないよう束ねられたのではないかと考えられます。思うようにその花を垂らすことの出来ない不自由さに、病魔に冒される自身を重ねた歌です。

【NO.24】

『 まをとめの 猶わらはにて 植ゑしより いく年(とせ)経たる 山吹の花 』

【意味】妙齢になった隣の娘がまだ幼かった頃に植えてから、何年が経過したのであろうか、この山吹の花は。

短歌職人
連作の詞書には「此の山吹もとは隣なる女の童の、四五年前に一寸ばかりの苗を持ち来て、戯れに植ゑ置きしものなるが、今ははや縄もてつがぬる程になりぬ。」とあり、実際に経過している年月は45年のようです。山吹の枝の寿命は34年と言われており、新しい枝が次々と出てくるため、この歌を詠む頃にはかなりの範囲で咲いていたことが分かります。

【NO.25】

『 あき人も 文(ふみ)くばり人も 往きちがふ 裏戸のわきの 山吹の花 』

【意味】商人も郵便配達の人も行き交う、裏戸の脇に咲く山吹の花。

短歌職人
前述の二首同様、山吹の花の連作のうちの一つです。歌中にある「あき人」は商人のことを指します。ガラス戸から見える商人や郵便配達員の行き交う姿と、裏戸脇でひっそりと咲く山吹の花との、対照的なその静と動に物語が見えてくるような一首です。

【NO.26】

『 病むわれを なぐさめがほに 開きたる 牡丹の花を 見れば悲しも 』

【意味】病に冒されている私を慰めるような顔をして、花を咲かせる牡丹を見ると悲しく思える。

短歌職人

牡丹の美しく鮮やかに咲く姿がいたずらに思え、病に蝕まれる身の上を惨めに感じる様子が感じ取れます。擬人的表現により、「牡丹」と対話するような空気感も窺えます。

 

【NO.27】

『 夕顔の 棚つくらんと 思へども 秋待ちがてぬ 我いのちかも 』

【意味】夕顔の棚を作ろうと思うが、夕顔の実のなる秋まで待つことの難しい私の命よ。

短歌職人
夕顔の棚を毎年作っていたのか、その季節の到来に合わせ作ろうと思うも、果たして自身の命がそれまで持つか、近づく死を噛み締める一首です。

【NO.28】

『 薩摩下駄 足にとりはき 杖つきて 萩の芽つみし 昔おもほゆ 』

【意味】薩摩下駄を履き、杖をついて萩の芽を摘んだ昔が思い出される。

短歌職人
歌中「薩摩下駄」とは、台の幅が広く杉材で出来た男性用の下駄のことを言い、多くは太く白い緒がすげられています。健康であった時期を回想し、病苦に耐えながらかつてを詠んだ歌と言われています。

【NO.29】

『 若松の 芽だちの緑 長き日を 夕かたまけて 熱いでにけり 』

【意味】若松の目の緑が繁るのを日を通して見ていたら、いつの間にか夕方が来て熱が出たことだ。

短歌職人
息吹の香る青々とした若松の芽と、今にも絶えそうな子規との対比を感じる一首です。病状の悪化により作品数は減ったものの筆を置くことはなく、この歌もそんな歌人・正岡子規の生き様が見えてきます。

【NO.30】

『 いたつきの 癒ゆる日知らに さ庭べに 秋草花の 種を蒔かしむ 』

【意味】病の癒える日が来るか、分かるものではないが、秋に咲く草花の種を庭に蒔いてもらった。

短歌職人
「しひて筆をとりて」との詞書のあった十首連作最後の作品です。藤の花や松の葉などの連作とは異なり共通した言葉はありませんが、自身の病を通し一貫して死と対面し続けています。上記の歌では、秋を迎えられない未来を頭に置くも、生き永らえた場合の僅かな希望にも取ることが出来ます。

 

以上、正岡子規の有名短歌でした!

 

 

短歌職人

34年という短い生涯で詠まれた子規の短歌には儚いながらも力強さがあり、そしてどこか清々しさすら感じさせる独特な雰囲気もあります。

万死の床に臥しながらも文字と共に歩んだ人生、そうして生み出された作品は彼の生き様そのものであったことでしょう。