【願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

風に吹かれてひらひらと花びらが舞い落ちる満開の桜を見ると、いつもは心の中にしまってある懐かしい出来事が、ふいに思い出されます。

 

さまざまな感傷を呼び起こす桜の花は、今も昔も多くの歌人に愛され、和歌のモチーフとして非常に人気があります。

 

今回は、桜と旅を愛する歌人として人気の高い西行の歌「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」をご紹介します。

 

 

本記事では、「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」の詳細を解説!

 

願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃

(読み方:ねがわくは はなのしたにて はるしなん そのきさらぎの もちづきのころ)

 

作者と出典

この歌の作者は「西行(さいぎょう)」です。旅に生きた歌人・漂泊の歌人として知られ、旅の中での感興・自然への愛着が、さまざまな歌に詠まれています。

 

(西行法師 出典:Wikipedia)

 

この歌の出典は『山家集』

 

自然と人生を詠い、無常の世をいかに生きるかを問いかけている、西行の歌集。成立年は不詳ですが、治承・寿永の乱 (源平合戦) の最中か直後ではないかと言われています (治承4年・1180年~元暦2年・1185)

 

現代語訳と意味 (解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「願うことには、春の満開の桜の下で死にたいものだ。それも(釈迦が入滅したとされている)陰暦の2月15日の満月の頃に」

 

という意味になります。

 

桜と月を愛した歌人・西行の本領が発揮された、情景を容易に思い浮かべることができる、桜を詠んだ和歌の名作のひとつです。

 

文法と語の解説

  • 「願わくは」

「願わ」は動詞「願ふ」の未然形、「く」は接尾語、「は」は係助詞。「願わくは」で、「願うことには。どうか」という意味。

 

  • 「花の下にて」

「花」は「桜の花」のこと。「の」は連体修飾格の格助詞。「にて」は場所を表す格助詞。

 

  • 「春死なん」

「死な」は動詞「死ぬ」の未然形。「ん」は意志の助動詞「む」の終止形。

 

  • 「その如月の望月のころ」

「如月」は「陰暦2月」。「の」は連体修飾格の格助詞。「望月」は「満月」。「の」は連体修飾格の格助詞。「如月の満月」で「釈迦が入滅した陰暦215日の満月」を表します。

 

「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことで、読むときもここで間をとると良いとされています。

 

この歌は「春死なん」のところで一旦文章の意味が切れます。三句目で切れていますので、「三句切れ」の歌となります。

 

表現技法

表現技法として目立つような技法は用いられていません

 

「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」が詠まれた背景

 

西行は、秀郷流武家藤原氏の出自で、俗名・佐藤義清 (さとう のりきよ)、武士として徳大寺家に仕えていました。しかし23歳で出家して円位を名乗り、後に西行とも称しました。

 

この歌が詠まれた年は不明ですが、西行は享年73歳、この歌はその約10年前に詠まれたものだと言われています。

 

理想の死について詠ったこの歌に、どのような思いがこめられているのでしょうか?この歌を詠んだとき63歳だとすると、当時としては長寿といっても良い60歳を超えるほど生きた西行は「もう思い残すことはない」という感慨をこめて、この歌を詠んだのかもしれません。

 

桜を愛した歌人として知られた西行が、満開の桜の下で死ぬことを望んだのは自然なことでしょう。そして、僧として陰暦2月15日の釈迦入滅の日に臨終を迎えたいと願う気持ちも、美しく詠み込まれています。

 

「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」の鑑賞

 

西行が理想の死について美しく詠い上げたこの句には、西行の強い思いがこめられています。

 

前半の「願わくは花の下にて春死なん」。「願わくは」は、願望や希望の表現を伴って、ひたすら強く願うという意味を表す言葉です。「春死なん」つまり「春に死にたい」。美しく簡潔な表現ですが「春の満開の桜の下で死にたいと、強く強く願っています」という西行の思いがこめられているのです。

 

後半の「その如月の望月の頃」は、「釈迦入滅の日、陰暦215日」を表しています。出家の身であればこそ、お釈迦様の亡くなられた日に臨終を迎えたい、という思いもとても強かったのでしょう。

 

実際、この歌の通りに、西行は215日を1日過ぎた216日に亡くなっています。このことを知った上でもう一度この句を読み返すと、さらに胸に迫るものがあります。

 

もしも願いがあるならば、よこしまな気持ちを持たず、ただひたすらに強くまっすぐに願えばかなえられるのだということを、この歌が示してくれているように思います。

 

「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」のあれこれ

望月の頃は、現在の「3月の後半」を指す

「花の下」は「桜の花の下」を意味します。しかし「如月(2)」に咲く花は、梅ではないのかという疑問がわいてきます。

 

2月といっても陰暦の2月なので、現代の2月とは季節が少しずれます。

 

さらに「望月の頃」なので「陰暦215日」。今の暦では3月の後半にあたります。まさに桜が満開の時期ですね。

 

西行が愛した桜は「山桜」

私たちが桜と聞いて一番に思い浮かべるのはソメイヨシノですが、西行が愛した桜は、ソメイヨシノではなく、山桜です。ソメイヨシノは、江戸末期から明治初期に、東京の染井にある植木屋さんが作った新種の桜です。

 

西行の願いは叶った

「満開の桜の下で、お釈迦様が亡くなられたその日に生涯を閉じたい」と願った西行。その強い願いがかなえられ、実際、西行は73歳のとき、文治6(1190) 216(釈迦入滅の日の翌日) にこの世を去っています。

 

その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博しました。

 

作者「西行」を簡単にご紹介!

(西行 出典:Wikipedia)

 

武士の家に生まれ育ち、武士として徳大寺家に仕えたが、若くして出家し、諸国をめぐる漂泊の旅に出た、旅と自然を愛した歌人・西行。

 

秀郷流武家藤原氏の出自で、俗名・佐藤義清 (さとう のりきよ)。徳大寺家に仕え、鳥羽上皇の北面武士としても奉仕していたことが記録に残っており、武士として非常に優秀な人物であったことがうかがえます。

 

23歳で出家して円位を名乗り、後に西行とも称しました。出家後は、各地に草庵を営み、全国を旅しながら多くの和歌を残しました。

 

歌風は、率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現しているのが特徴です。隠棲趣味の和歌に、研ぎ澄まされた寂寥・閑寂の美を盛り込んだ抒情的な作品は、当時の歌壇に大きな影響を与えました。山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったと見られていますが、同時代の歌人、藤原俊成や藤原定家に自らの歌の批評を乞うていたことが知られており、当時の歌壇の中心人物であったことは間違いありません。

 

後世に与えた影響は極めて大きく、旅の中にある歌人の代表的存在として名を残しました。のちの宗祇、松尾芭蕉の作風に大きな影響を与えたとされています。

 

「西行」のそのほかの作品

(和歌山県紀の川市の西行法師像 出典:Wikipedia

 

  • 惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ
  • 嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな
  • 心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ澤の秋の夕ぐれ
  • 身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
  • つよくひく綱手と見せよもがみ川その稲舟のいかりをさめて
  • 何事のおはしますをばしらねどもかたじけなさに涙こぼるる
  • おもかげの忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて
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