古典文学の時代から日本に伝わる詩のひとつに短歌があります。
五・七・五・七・七の三十一文字で自然の美しい情景を詠んだり、繊細な歌人の心の内をうたい上げます。
今回は、評論『新しき短歌の規定』が戦後短歌の出発を支えるマニフェストとして注目され、長く歌壇の中心的存在として活躍した近藤芳美の歌「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」をご紹介します。
たちまちに君の姿を霧とざし
或る楽章をわれは思ひき
近藤芳美
#折々のうた三六五日#霜月十一月二十九日#早春歌 pic.twitter.com/zbPtXFRgir
— 菜花 咲子 (@nanohanasakiko2) November 23, 2017
本記事では、「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」の詳細を解説!
たちまちに 君の姿を 霧とざし 或る楽章を われは思ひき
(読み方:たちまちに きみのすがたを きりとざし あるがくしょうを われはおもいき)
作者と出典
この歌の作者は「近藤芳美(こんどう よしみ)」です。戦後短歌の論作両面の第一人者として活躍した歌人です。
また、出典は『早春歌』です。
昭和23年(1948)刊。近藤芳美の第一歌集で、多くの青年歌人に大きな影響を与えました。この歌は昭和12年の作で、戦後短歌の出発を伝える歌・相聞歌を代表する一首となった記念碑的な歌です。
現代語訳と意味(解釈)
この歌は、旧仮名遣いが使われていますが現代語の歌です。
「君の姿はあっという間に霧の中に消えていった私はそのときふとある楽章を思い出したのだった」
という意味になります。
この歌は、昭和12年の夏、金剛山で行われた朝鮮アララギ派の宿泊歌会で詠まれました。のちに妻となる女性、中村年子と出会った歌会でもあります。歌に詠まれた君は、年子のことだともいわれています。
文法と語の解説
- 「たちまちに」
「たちまち」は「忽ち」と書き、すぐに、にわかといった意味があります。この句の「に」は状況、背景を表す格助詞です。
- 「君の姿を」
作者によると、先に山を下りる少女を見送っている場面でのこと、とのことです。作者も少女も何度も手を振って別れたようです。
- 「霧とざし」
霧は空気中の水蒸気が凝結して微小な水滴となって大気中に浮遊し煙のように見える現象で、平安時代以降は、春に立つものを霞、秋に立つものを霧と呼び分けるようになりました。
「とざし」は「とざす」の連用形で、とじこめるという意味です。
- 「或る楽章を」
「或る」は「ある」と読み、具体的にどれと示さずに存在をにおわせるときに使います。「楽章」はソナタや交響曲などを構成する完結した曲章です。
- 「われは思ひき」
「われ」は「わたし」という意味です。「思ひき」は、「思う」の旧仮名遣い「思ふ」の連用形に、回想を表す「き」という助動詞がついたものです。「き」は文語表現です。思い出した、思いめぐらせたという意味になります。
「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、歌の中の大きな意味の切れ目のことです。
この歌に句切れはありませんので、「句切れなし」となります。霧や音楽が途切れることなく続いて、作者の君への途切れることのない思いをイメージさせるようです。
表現技法
この歌には表現技法として目立つような技法は使われていません。
「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」が詠まれた背景
近藤芳美は、昭和7年(1932)に「アララギ」に入会します。
この歌は、昭和12年(1937)、広島の祖母の家に寄寓しながら学生生活を送っていた近藤芳美が、夏休みに両親の家である朝鮮半島の京城に帰省した時に詠まれました。
金剛山で土屋文明を迎え、朝鮮アララギ派の宿泊歌会が行われました。
そこでのちの妻となる中村年子と出会います。この時に詠まれた数首の歌は、年子への思いともいわれています。
この歌は、「山上にて」という五首の中の一首です。時代は日中戦争へと向かっていたため、戦争へ少女を巻き込むような率直な愛の表白はためらわれだったのかもしれません。
「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」の鑑賞
【たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき】は、作者がほのかな思いを抱いていた少女を見送る場面を詠んだ歌です。
初句「たちまちに」は、あっという間にという意味です。
名残を惜しんで何度も振り返りながら山を下りていく少女の姿を作者も手を振り返しながら見送っていたのに、それを断ち切られた無情さが感じられます。
そして「君の姿を霧とざし」と続きます。こちらの都合などかまうことなく無慈悲に出現する霧に君の姿がとじこめられて見えなくなってしまいます。これから始まる戦争も、徴兵によって強制されることになります。
霧も戦争も個人の思いとは関係なく二人の間に立ちはだかるということを感じさせます。
また、「或る楽章を」とあえて特定しないことで読者それぞれの楽章を想像させています。
映画の一場面のようと評されるこの歌は、みずみずしい恋の現代性とその切実さから誰からも愛誦され、記憶される歌です。
作者「近藤芳美」を簡単にご紹介!
近藤芳美さんと短歌人新年歌会 pic.twitter.com/l3aCW5XdbH
— つるたいつ (@dd76V8l1SGe3G8T) January 20, 2019
近藤芳美は戦後に活躍した歌人です。生年は1913年(大正2年)で、父親の赴任先であった朝鮮馬山浦(まさんぽ)に生まれました。
昭和7年(1932)、21歳のときに「アララギ」に入会します。20代のころは字余りの破調の歌を多く詠み、西欧文学の影響を感じさせる散文的な表現の歌も見受けられます。
昭和12年(1937)、26歳の時に日中戦争が始まります。そして、昭和16年(1941)には太平洋戦争と戦時下で青年期を過ごします。
東京工大を卒業し、戦後は建築技師として建設会社に勤めています。
戦中も妻にあてたハガキに歌をつづるなど歌を詠み続け、戦後となる昭和23年(1948)に第一歌集『早春歌』を発表します。その後も晩年の90代まで歌を詠み続け、出版された歌集は24冊にのぼります。また、戦後短歌の歌論集として『新しき短歌の規定』が多くの歌人に読まれました。
平成18年(2006)6月21日に93歳で死去しました。
「近藤芳美」のそのほかの作品
- 漠然と恐怖の彼方にあるものを或ひは素直に未来とも言ふ
- 嵐めき波立つ沖に出でむとす岬みさきに白き桜は
- 待つものを寂しき悔と知りながら又吾が行かむ否と言へねば
- あくなかりし戦争大量殺戮の後に来る未来二〇〇〇年の明く
- 生と死ともとよりなしと知ることの老いの極みの救済が来る