【一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

明治の歌人・石川啄木は貧しい暮らしの中で多くの短歌を作りました。

 

自分の悲しみや弱さを包み隠さずに歌に詠み、その正直で切実な思いは現代でも多くの人の共感を呼んでいます。

 

今回は石川啄木の「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」を紹介します。

 

 

本記事では「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」の詳細を解説!

 

一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと

(読み方:いちどでも われにあたまを さげさせし ひとみなしねと いのりてしこと)

 

現代語訳と意味

この歌を現代語訳すると、下記のようになります。

 

「一度でも自分に頭を下げさせた人は全員死ねと祈ったこと。」

 

中々過激な内容ですが、ここまで自分の気持ちを赤裸々に表現したところには感嘆を覚えます。「祈ったこと」と体言止めで歌を終えているところが印象的で、歌の内容も相まって強烈な余韻を残します。

 

作者と出典

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

この歌の作者は「石川啄木(いしかわ たくぼく)」です。

 

石川啄木は、明治の歌人・詩人で、26歳という若さで亡くなったため、「夭折の天才」と称されることもあります。才能がありながら境遇に恵まれず、貧しい暮らしを強いられた悲劇の歌人としてもよく語られる人物です。

 

啄木は一首の短歌を3行に分けて書き表したり、句読点や記号を用いたりと当時としては目新しい手法で短歌を作りました。日常の出来事や生活に感じた自分の思いを率直に表現し、また故郷である盛岡の短歌が多いことも作品の特徴です。

 

この歌の出典は「一握の砂」です。

 

一握の砂は石川啄木の第一歌集で、彼が亡くなる2年前の明治43年(1910年)に刊行されました。啄木の生前に出された唯一の歌集です。551首の歌が収められていますが、そのほとんどのは明治43年に詠まれたものです。

 

当時東京で暮らしていた啄木が自身の生活をありのままに詠んだ歌や、故郷の盛岡、以前に暮らしていた北海道を思い出して詠んだ歌が収められています。「一握の砂」は構成が5つに分けられており、この歌はその中の「我を愛する歌」という章にあります。

 

文法と語の解説

  • 「一度でも」

「でも」は助詞で、前に付く言葉を例として挙げて、挙げられていない例を暗示します。この歌では「一度」が例となっていて、「一度の場合でも祈ったのだから二度三度の場合はなおさらだ」という祈りの強さを暗示しています。

 

  • 「我に頭を下げさせし」

「私に頭を」は「自分に頭を」という意味です。

「下げさせし」は「下げさせた」という意味です。「させ」は使役を表す「さす」の連用形で、「~するように仕向ける、~することを許す」といった意味を表します。「し」は完了の助動詞「き」の連体形です。

 

  • 「人みな死ねと」

「人はみんな死ねと」といった意味です。「みな」は「全部、残らず、すべてもの」を表す言葉で、「と」は助詞です。

 

  • 「いのりてしこと」

「祈ったこと」という意味になります。「祈る」は心から望む、念じることで、良いことだけではなく、相手に災いが起こるように念じる場合にも使われる言葉です。

「いのりてし」は「いのる」の連用形に接続助詞の「て」が付き、更に完了の助詞「き」の連体形「し」が付いたものです。「こと」は漢字で「事」「言」と書き、活用語の連体形に付いてそれを名詞化する言葉です。

 

「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」の句切れと表現方法

句切れ

歌の意味や文章としての切れ目がないため、この歌は「句切れなし」です。

 

体言止め

体言止めとは名詞で文章を終える表現のテクニックで、言い切りの形で文が終わるため読み手の印象に残りやすくなる効果があります。

 

この歌では第五句「いのりてしこと」と体言止めで終わっており、歌全体が引き締まり、読み手に強い印象を残します。

 

「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」が詠まれた背景

 

この歌は1910年(明治43年)、啄木が24歳の頃に詠まれたものです。

 

啄木は17歳の折に文学で身を立てるため上京し、体を悪くしてやむなく帰郷。そして夢をあきらめきれずに22歳の頃に再び上京して、以降東京で暮らしていました。生活はとても貧しく、方々から借金も多くしていたようです。

 

啄木は賢い人物で、幼少時代には天才ともてはやされていたからか、非常にプライドの高い性格だったと言われています。恐らくあまり人に頭を下げることはなかったでしょう。

 

頭を下げなければならなかったことが悔しかったのか、悲しかったのか、それとも謝罪相手にいなくなってほしかったのか、いずれにせよ啄木は日頃から「死ねばいいのにな」と思っていたのでしょう。そしてその気持ちをありのままに吐き出して短歌にしたのでしょう。

 

「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」の鑑賞

 

この歌は強い言葉で気持ちが表現され、また体言で終わることもあり、読み手に強烈な印象を残しています。

 

「人みな」とあるので、それなりに多い数の人の死を祈っているようですが、一方で「特定の誰それや誰々」ではなく「人みな」と一緒くたにされていて、そこまで強い恨みなどは感じられません。

 

この歌は人間関係で嫌な出来事があった時に「あの人がいなければいいのにな」と思う感覚の延長で詠まれているように感じます。啄木の場合は「憎らしい」と思う気持ちが強いだけかもしれません。

 

啄木はその生涯のほとんどが貧しく、自分に才能があることを自分で知っていながらも思うようにならない人生を歩んでいました。鬱屈した毎日を送り生活のために人に頭を下げなければならない中で、相手に「死ねばいいのに」と思ったとしても不思議ではありません。

 

この歌には啄木らしい気高さと気骨があり、綺麗ではない気持ちを露骨なまでに正直に表現したところに魅力が感じられます。

 

作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木は1886年(明治19年)に、岩手県の盛岡市(当時は南岩手郡)で生まれました。本名は石川一で「啄木」はペンネームです。啄木は賢い子供で周りからは天才・神童と言われ、両親もそんな啄木を溺愛していました。

 

17歳の折には文学者を志して上京、歌人の与謝野晶子、鉄幹を訪ねて雑誌「明星」に寄稿するなどの活動を始めますが、病気のために帰郷を余儀なくされます。この上京は啄木に刺激を与え、彼は20歳の時に詩集「あこがれ」を出版し、世間から高評価を得ました。

 

しかし僧侶だった啄木の父が檀家とのトラブルのため故郷を出奔し、啄木と家族も盛岡を離れなければなりませんでした。啄木は北海道へ渡り、教員や新聞社の記者などで家計を支えますが、文学の道をあきらめきれずに再び単身で上京します。

 

啄木は新聞社で働くかたわら文学活動をし、歌集「一握の砂」を出版しますが2年後の1912年(明治45年)に結核のため、26歳という短い生涯を終えました。死後に家族や友人によって第二歌集「悲しき玩具」が出版されています。彼の詩歌は後の萩原朔太郎や宮沢賢治など多くの文学者に影響を与えました。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)