万葉の時代より親しまれてきた日本の伝統文学のひとつに短歌があります。
五・七・五・七・七の調べにのせて、歌人の心情を描く叙情的な作品が数多く残されています。
今回は、医者でありながら歌人としても活躍して、数々の名作を残した斎藤茂吉の歌「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」をご紹介します。
最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片(斎藤茂吉)
愛知・一宮市付近。東海道新幹線は3分遅れ。 pic.twitter.com/QpJgC6OHcC— うずら🐈モダスパ+plusの中の人 (@caille2006) October 22, 2017
本記事では、「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」の詳細を解説!
最上川の 上空にして 残れるは いまだうつくしき 虹の断片
(読み方:もがみがわの じょうくうにして のこれるは いまだうつくしき にじのだんぺん)
作者と出典
この歌の作者は、明治から昭和を生きた歌人「斎藤茂吉(さいとうもきち)」です。
茂吉は医者でありながらも、文学方面にも関心を寄せ、数々の優れた作品を発表しています。
茂吉は医学を熱心に勉強し、やがて病院長を務めるまでになります。その一方、伊藤左千夫のもとで歌を学び、大正~昭和はじめにかけて歌誌「アララギ」の中心として活躍しました。
この歌の出典は『白き山』です。
昭和24年(1949年)に刊行された第16歌集です。『白き山』には、昭和21年(1946年)から昭和22年(1947年)にかけて、疎開先の大石田で詠んだ歌が収められています。晩年の代表歌集であり、茂吉の全歌集中の最高峰とされています。
現代語訳と意味 (解釈)
この歌を現代語訳すると・・・
「最上川の上空に残っているのは、(消えかかっているものの) まだ美しい虹の断片だ」
という意味になります。
最上川の上空にかかった虹を詠んだ歌です。作者が見たときには、完全な形の虹ではなく、虹は消えかかり、切れ切れの断片となっていました。この虹は、断片であることによって美しさが際立っています。
文法と語の解説
- 「最上川」
最上川は、山形県を流れる国内最長の川のこと。日本三大急流のひとつです。山形県(上山市)は茂吉の故郷であり、最上川は茂吉のふるさとの川です。
- 「残れるは」
「残る」の連用形+主格の「は」。「残っているのは」という意味。
- 「いまだ」
「まだ」という意味です。
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」の句切れと表現技法
(最上川 出典:Wikipedia)
句切れ
句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことで、読むときもここで間をとると良いとされています。
この句に句切れはありませんので、「句切れなし」です。
字余り
句の中で、短歌において音数(五七五七七)が規定より多いものを「字余り」と呼びます。
この歌の場合、初句が6文字の字余り「最上川の」、4句が8文字の字余り「いまだうつくしき」です。
字余りには、規定の音数ですんなり流れるはずのリズムがうまく流れないことによって、違和感を引き起こす効果があります。具体的に言うと、豊富さや余韻を感じさせる効果があります。
この歌での「最上川」は、作者にとって思い入れのある故郷の川、「いまだうつくしき」は、虹の断片の美しさに感動している表現です。作者が「余韻を感じさせたい」箇所に「字余り」の技法を使用していると考えられます。
体言止め
体言止めとは、短歌の結句 (第5句) を体言で終止することによって、その後にまだ表現が続くような印象を残す技法です。余韻・余情・詠嘆を表すことができます。
この歌では「虹の断片」が結句に来る、体言止めの技法が使用されています。
「最上川の空に虹の断片がかかっている」というのが一般的な語順ですが、この歌では最後まで読んではじめて「虹」が現れるという語順になっており、構成に工夫が凝らされています。
この歌を読む人の目線が、まず最上川に行き、次にその上空に行き、最後に虹の断片を見つけるという構成になっており、読者に驚きと感銘を与える効果があります。
また、最後の「断片(だんぺん)」という音は鋭く力強く、読む人に強い印象を残す終わり方となっています。
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」が詠まれた背景
茂吉は昭和21年(1946年)1月、当時の疎開先の上山から大石田に居を移し、二藤部家の元離れを住まいとしました。
野鳥の声が聞こえることから茂吉はこの家を「聴禽書屋」と名付けています。この家で昭和22年(1947年)11月までひとり住まいしました。
特に茂吉が好んだのは、大石田虹ヶ丘から眺める風景だったといいます。
山頂からは、最上川の雄大な流れを見下ろすことができます。
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」。この句は、虹ヶ丘山頂の歌碑に刻まれています。
「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」の鑑賞
茂吉は雨上がりの澄み渡る空にかかる美しい虹に心を動かされて、この歌を詠みました。
晴れ晴れとした空の下、川の流れの清々しさも茂吉の心に響いたことでしょう。
ここで「いまだうつくしき虹の断片」とあることから、茂吉が見ているのは、虹が徐々に消えかかって、最後まで残っている虹の切れ端(断片)であることがわかります。
虹の移ろいやすさ、けなげに残っている虹への感慨を感じさせる一句です。
若い頃から松尾芭蕉の影響を強く受けていた茂吉は、芭蕉のゆかりの地である大石田を非常に愛していました。この歌を詠んだ当時、大石田の二藤部家の元離れに住んでいた茂吉は、
芭蕉の足跡をたどるため、大石田町内や尾花沢などに出かけ、数多くの歌を詠みました。
大石田町内のあちこちに茂吉の歌碑が残っていることから、茂吉が最上川をはじめとする大石田の自然を愛し、四季のうつろいを、まざまな歌にのせて詠み上げていたことがうかがえます。
作者「斎藤茂吉」を簡単にご紹介!
(1952年頃の斎藤茂吉 出典:Wikipedia)
斎藤茂吉(明治15年(1882年)-昭和28年(1953年))。
茂吉は、精神科医でありながら、歌人としても活動しました。大正から昭和前期にかけて、歌誌・アララギの中心人物として創作に勤しんでいます。その生涯で17もの歌集を発表しました。
茂吉は、山形県上山市の農家の生まれです。斎藤家の後を継ぐことを見据えて、ある時菩提寺の住職の紹介により、開業医・斎藤紀一のもとに身を寄せ、医学を学ぶべく学校へ入ることとなりました。
茂吉は学生として医学に励む一方、文学にも強い関心を寄せていきました。明治37年(1904年)には、正岡子規の遺稿集に強い感銘を受けます。
そして、子規の流れをくむ伊藤左千夫のもとで短歌を学ぶようになります。歌誌『馬酔木』が『アララギ』になってからは、中心歌人として存在感を出していました。
大正2年(1913年)には第一歌集『赤光』を発表し、注目を集めました。
その後も医学に取り組みながら病院長になり、さらには短歌や柿本人麻呂の研究に精を出し続けました。
戦後の晩年期には、東北・蔵王の近くに移り、そこで歌集『小園』『白き山』へとつながる歌を詠みました。
昭和26年(1951年)には文化勲章を受章し、その翌年には『斎藤茂吉全集』が刊行されました。しかし、その喜びもつかの間、昭和28年(1953年)に心臓喘息のため70歳でその人生に幕を下ろしました。
「斎藤茂吉」のそのほかの作品
- ただひとつ 惜しみて置きし 白桃の ゆたけきを吾は 食ひをはりけり
- 沈黙の われに見よとぞ 百房の 黒き葡萄に 雨ふりそそぐ
- みちのくの 母のいのちを 一目見ん 一目見んとぞ ただにいそげる
- 猫の舌の うすらに紅き 手ざはりの この悲しさを 知りそめにけり
- 死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ 天に聞ゆる
- ものの行 とどまらめやも 山峡の 杉のたいぼくの 寒さのひびき
- 信濃路は あかつきのみち 車前草も 黄色になりて 霜がれにけり
- うつせみの 吾が居たりけり 雪つもる あがたのまほら 冬のはての日