奈良時代末期に成立したとされる、日本で最古の和歌集『万葉集』。
この万葉集には全20巻、4500首以上の歌が収められています。天皇や貴族の歌だけではなく、庶民の歌や方言で歌われた歌も含まれているという点で、この歌集の意義は大きなものです。
今回は『万葉集』の中の庶民の歌「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」をご紹介します。
防人に行くは誰が背と問ふ人を
見るが羨しさ物思ひもせず
防人の妻
#折々のうた三六五日#如月二月五日#万葉集 pic.twitter.com/ujVJogalkw
— 菜花 咲子 (@nanohanasakiko2) March 4, 2018
本記事では、「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」の詳細を解説!
防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず
(読み方:さきもりに ゆくはたがせと とふひとの みるがともしさ ものもひもせず)
作者と出典
この歌は「防人の歌」です。
「防人(さきもり)」というのは、諸国から徴兵された、九州の国境防備にあたる兵士のことです。「防人の歌」というのは、防人に徴用された人、またはその家族が詠んだ歌の総称になります。
この歌の出典は、『万葉集』(巻二十 4425)です。『万葉集』巻二十には、防人の歌が多く収められています。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「防人となって旅立っていくのは、だれの夫なのかしら、と尋ねている人を見て、なんと羨ましく思うことか。何も思い悩むこともしないで。」
となります。
防人に徴用され、旅立っていく夫を見送る妻の歌です。
文法と語の解説
- 「防人に」
「防人」は「さきもり」と読みます。九州の国境警備のために徴用される兵士のことです。
「に」は格助詞、「~として」という意味です。
- 「行くは誰が背と」
「行く」は動詞「行く」の連体形です。ここでは「行く人は」という意味です。
「誰が背」は「誰の夫」という意味。「背(せ)」は夫、「妹(いも)」は妻、「妹背」で夫婦という意味です。
「と」は引用の格助詞です。
- 「問ふ人を」
「問ふ」は動詞「問ふ」の連体形。「を」は対象を表す格助詞です。
- 「見るが羨しさ」
「見るが」は動詞「見る」の連体形「見る」+格助詞「が」です。ここでは「見るのが」という意味です。
「羨しさ(ともしさ)」形容詞「羨し」の語幹「羨し」+接尾辞「さ」がついて名詞化した形ですが、詠嘆の意味を込めて使われます。ここでは、「なんと羨ましいことか」というような意味です。
- 「物思ひもせず」
「物思ひ」は、「ものもい」と読みます。動詞「物思ふ」の名詞化したものです。
「も」は強意の格助詞。「せず」は動詞「する」の未然形「せ」+打消しの助動詞「ず」です。
「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、一首の中で大きく意味が切れるところを言います。普通の文でいえば、句点「。」がつくところです。読むときにもここで間をおいて読むことになります。
この歌は、四句目「見るが羨しさ」で意味が切れますので、「四句切れ」の歌です。
倒置法
倒置法とは、普通とは言葉の並びをあえて逆にして、印象を強める表現技法です。
この歌は、普通の言葉の並びでいえば・・・
「物思ひもせず防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ」
(意味:何も思い悩むこともしないで、防人に行くのはだれの夫なのかしら、と尋ねる人を見て、なんと羨ましいことか。)
という語順になります。しかし、倒置法を用いて「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」とすることで、切実な羨ましさ、強い感情を表現しています。
「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」が詠まれた背景
防人は、古代の法制度、『大宝律令』(大宝元年(701年))、『養老律令』(天平宝字元年(757年))で定められた徴兵制度です。唐(古代中国の国名)が侵攻してくるのではないかという憂慮に備え、九州の国境警備のために、諸国から兵士が集められました。
任期は3年ということにはなっていましたが、延長もよくありました。
防人はまず役人に引率され、難波(大阪)まで赴きますが、この旅費は自費です。難波から九州の任地までは船で運ばれます。帰りは任地から郷里まですべて自力で、旅費も自分持ちで帰ることになっており、故郷に帰りつくことなく命を落とした防人も多くいたということです。
『万葉集』巻二十には、防人の歌が多く集められています。その多くが、天平勝宝7年(755年)に防人の交代で筑紫(福岡県)に派遣された防人たちの歌であるという詞書がついています。
この「防人に行くは誰が背と…」の歌については、それよりも以前の歌を「磐余伊美吉諸君(いわれのいみきもろきみ)」という人物が書き写し、「大伴家持(おおとものやかもち)」に送ったものであるとの記述があります。
大伴家持は、その時、兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)という役職について、難波の港(大阪府)で諸国から集められた防人たちを検閲し、筑紫に向かう船に乗せる仕事をしていました。
大伴家持は仕事を通じて防人たちに触れ、防人たちの歌を聞いて感銘をうけ、それらを集めていたようです。
「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」の鑑賞
この歌は、防人にあたった人の妻の激しい感情がこめられた歌です。
防人となれば無事に帰って来られるかはわかりません。九州に向けて旅立つ夫の姿を見送ったのが最期となってしまうこともかなりの確率でありました。
また、夫が防人にとられたからといって、納める税に変わりはなかったので、働き手が減る分、残される家族の生活は苦しくなります。
防人として徴用されるのか、免れるのかには、天地ほどの差がありました。
防人の妻からすれば、「だれの夫が防人に行くのかしら?」と尋ねている人は、恨めしいほどに羨ましく思えたことでしょう。
すぐに直面する苦しい生活や、夫を失うかもしれないということに対する不安、悲しみにさいなまれている我が身にひきくらべて、何の悩みもないと思えて仕方ないのかもしれません。
庶民の生活に密着した、率直な苦しみの叫びともいえる歌です。
防人の歌を集め、『万葉集』に収めたといわれている「大伴家持」について
(大伴家持 出典:Wikipedia)
大伴家持(おおとものやかもち)は、奈良時代の貴族であり、歌人です。養老2年(718年)頃に生まれたとされ、死去は延暦4年(785年)です。
名門大伴氏のひとりとして、宮中に出仕しました。さまざまな役職を歴任し、官僚として地方に赴いたこともなんどもあります。
歌人としての才能にあふれ、力強く神に祈る歌から内省的な繊細な歌までいろいろな歌を詠みました。
そして、『万葉集』の成立にも大きくかかわっていると考えられている人物です。『万葉集』の大きな特徴の一つとして、防人の歌や農民の歌といった庶民の歌も抄録されていることがあげられます。
防人たちを筑紫に送り込む仕事をしていた大伴家持は防人たちの歌にも興味を持ってそれらを集めていたのでした。『万葉集』巻20には、天平勝宝7年(755年)に防人の交代で筑紫(福岡県)に派遣された防人たちの歌が90首ちかく載っています。それらの歌の詞書を読んでいくと、どうやら150首を超える歌の中から優れた歌を選抜して『万葉集』に収録したことがわかります。
このように、大伴家持は歌の才能のある歌人としての功績にのみあらず、歌集の編集者としての手腕ももっていたのです。
大伴家持は『万葉集』の編集という千年以上もの時を超えて古代の庶民から貴族まで、多くの人々の哀歓を詠んだ歌を今に伝える事業を成し遂げた人物と考えられています。
「防人の歌」のそのほかの作品
- 父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる
- 唐衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして
- 忘らむと野行き山行き我来れどわが父母は忘れせのかも
- 天地のいずれの神を祈らばかうつくし母にまた言問はむ
- 時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ
- 水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき