【道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

短歌の歴史は古く、1000年以上前からの歌も多く伝わっています。

 

高名ないにしえの歌人の中には、その死後何百年たっても、歌のすばらしさが称えられ、伝説的存在となっていたり、神格化されている人もいます。

 

平安時代の終わりから鎌倉時代の初期に活躍した「西行」もその一人です。江戸時代の俳聖、松尾芭蕉は西行の歌に深く感動し、西行を尊敬していました。

 

今回は、西行の歌「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」をご紹介します。

 

 

本記事では、「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」の詳細を解説!

 

道の辺に 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ 立ちどまりつれ

(読み方:みちのべに しみずながるる やなぎかげ しばしとてこそ たちどまりつれ)

 

作者と出典

この歌の作者は「西行(さいぎょう)」です。平安時代末期の歌人で、僧侶でもあり、各地を旅して歌を詠みました。

 

この歌の出典は『新古今和歌集』(巻三 夏・262です。

 

『新古今和歌集』は、建仁元年(1201)の後鳥羽院の下命で編纂された勅撰和歌集です。

(※勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命令によって編纂される和歌集のこと。)

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「道のほとりに、清らかな水が小川となって流れ、柳が涼しい木陰を作っているところに、わずかな間休もうと立ち止まったのだが…。」

 

となります。

 

作者は「しばしとてこそ立ちどまりつれ(わずかな間休もうと立ち止まったのだが…)」と途中でいいさして歌を結んでいますが、これは、結局長い時間涼しい木陰で時を過ごしたということを示しています。

 

柳の木陰に涼を求める、さわやかな夏の歌です。

 

文法と語の解説

  • 「道の辺に」

「道の辺」は、道のほとりという意味です。「の」は連体修飾格の格助詞、「に」は存在の場所を表す格助詞です。

 

  • 「清水流るる」

「清水」は水の美称、清らかな水ということです。「流るる」は動詞「流る」連体形です。

 

  • 「柳陰」

「柳」は水辺に生える灌木です。夏には多くの葉を茂らせます。「柳陰」で、柳の木の陰ということです。

 

  • 「しばしとてこそ立ちどまりつれ」

「しばし」は、わずかの間、少しの時間ということ。「とて」は「~と思って」ということです。「こそ」は係助詞で、文末が已然形になる係り結びを作ります。

「立ち止まりつれ」は、動詞「立ちどまる」連用形「立ちどまり」+完了の助動詞「つ」已然形「つれ」です。「こそ」という係助詞があるので、歌の終わりが「つれ」と已然形になります。

「こそ~つれ」の係り結びで、文の意味を強める働きがあります。「しばしとて(少しの間と思って)」の意味を強めています。「少しの間だけ、と思っていたのになあ(つい長居をしてしまったことだ)」という意味です。

 

「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」の句切れと表現技法

句切れ

この歌、三句目「柳陰」で一旦意味が切れますので、「三句切れ」となります。

 

省略

省略とは、文の内容を言い切ることなく、読者に推量させて余韻を残す技法です。

 

この歌では、「しばしとてこそ立ちどまりつれ(わずかな間休もうと立ち止まったのだが…)」と、途中で言葉を止めて歌を結んでいます。この後に続く、「つい長居をしてしまったことだ」という内容は読者に推量させています。

 

言葉を省略することで、柳の木陰の涼しさをより印象強く表現しています。

 

「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」の鑑賞

 

この歌からは、暑い夏の日、小川のある柳の木陰の心地よい涼しさが伝わってきます。

 

旅人に心地よい木陰を提供してくれるような柳ですから大木なのでしょう。歌に詠みこまれていない青い空・太陽の陽ざしや風のそよぎも詠む人に想像させる、奥行きのある歌です。

 

「題しらず」の歌ですが、漂白の歌人・西行の姿を思い浮かべれば、この歌は旅の途中で詠んだのかもしれません。

 

爽やかな夏の歌として、西行の代表歌のひとつにふさわしい歌です。

 

「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」の背景

 

この歌は、『新古今和歌集』では「題しらず」。つまり、どのような状況で何を題材に詠んだ歌なのかは伝わっていないという詞書がついています。

 

鎌倉時代に成立した、『西行一代記』という書物によると、鳥羽院の別荘のふすまの絵に添えた歌だということですが、本当かどうかはわかっていません。

 

西行という人物は、旅をして歌を詠んださすらいの歌人として、鎌倉時代から多くの説話が残され、伝説化していった人物です。あとづけで様々な伝説が作られました。

 

室町時代の能楽師観世信光(かんぜのぶみつ)の謡曲(能楽の台本)に『遊行柳(ゆぎょうやなぎ)』という作品があります。この話の中で、白河の関(東北地方の入り口にあたる関所)あたりの柳の樹の精が出てきて、西行の「道の辺に…」の歌を詠じ、西行がここを訪れたのだと述懐する場面があります。

 

この柳は、現在の栃木県那須町芦野に実際にある柳の樹だとされています。この柳は「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」と言われて有名になりました。

 

江戸時代の俳人、松尾芭蕉は、さすらいの歌人西行をこよなく尊敬していました。芭蕉が東北地方に旅をしたときにこの遊行柳を訪れ、西行にも思いをはせつつ、以下の句を詠んだと俳諧紀行文『おくのほそ道』に記されています。

 

田一枚 植えて立ち去る 柳かな

(意味:農民たちが田を一枚植えて、立ち去って行き、あとに残されたのは柳のみである。)

 

西行が栃木県那須町の柳の樹をみて「道の辺に…」を詠んだかどうか、実際のところはわかりません。

 

しかし、那須町の「遊行柳」は、西行が歌を詠んだところであり、謡曲『遊行柳』の舞台であり、松尾芭蕉が句を詠んだ場所として現在でも親しまれています。

 

 作者「西行」を簡単にご紹介!

(西行 出典:Wikipedia)

 

西行(さいぎょう)。生年元永元年(1118)、没年は文治6(1190)です。

 

俗名(僧侶になる前の名前)を佐藤義清(のりきよ)といいました。藤原北家の流れを汲む家柄ですが、中流階級で、若い頃は、名門徳大寺家に仕え、鳥羽院の北面の武士として宮中に出仕していた記録も残ります。

 

西行は保延6年(1140年)23歳で出家しました。陸奥、出羽(東北地方)の歌枕を訪ねる旅、中国・四国地方へ、かつて仕えた崇徳院を慰霊する旅など、各地を旅した漂泊の歌人としても知られています。

 

同時代の歌人に藤原俊成・定家親子、寂蓮などがいます。後鳥羽院の下命により定家らが編纂した『新古今和歌集』には、誰よりも多く94首が入集しました。

 

西行の有名な歌には、・・・

 

「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」

(意味:私の願いは、満開の花のもと、春にこの世を去りたいということだ。桜が満開の、二月の満月のころに。)

 

もあります。その歌の通り、文治6(1190)216日(現在の暦でいうと、331日にあたる)に亡くなりました。

 

 

「西行」のそのほかの作品

(和歌山県紀の川市の西行法師像 出典:Wikipedia

 

  • なげけとて月やは物を思はするかこちがほなるわが涙かな
  • 仏には桜の花をたてまつれ我がのちの世を人とぶらはば
  • 聞かずともここをせにせむほととぎす山田の原の杉のむら立
  • 心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮
  • 吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ