【馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞など

 

短歌は愛好家の多い文学です。

 

様々な歌人が多くの歌を詠んでいますが、ファンの多い歌人のひとりに、明治時代に儚い一生を生きた石川啄木がいます。

 

今回は明治時代の歌人石川啄木の短歌の中から、「馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に」をご紹介します。

 

 

本記事では、「馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に」の詳細を解説!

 

馬鈴薯の 薄紫の 花に降る 雨を思へり 都の雨に

(読み方:ばれいしょの うすむらさきの はなにふる あめをおもえり みやこのあめに)

 

作者と出典

この歌の作者は「石川啄木(いしかわたくぼく)」です。抒情性の高い歌を詠んだ、明治歌人です。

 

この歌の出典は、石川啄木の第一歌集『一握の砂』(煙二)。明治43(1910)12月に刊行された歌集です。

 

前書きによると、この歌集は明治41年(1908年)夏以後の短歌が収録されています。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「故郷の、ジャガイモの花に降る雨のことを思いだしていることだ。故郷を遠く離れた都会の雨を眺めていると。」

 

となります。

 

「馬鈴薯」はジャガイモのことです。ナス科の植物で、6月ころ薄紫の小さい花をつけます。ちなみに、食用となるイモは、花が咲き終わるころ収穫期を迎えます。

 

文法と語の解説

  • 「馬鈴薯の薄紫の」

この「の」は、どちらも連体修飾格の格助詞です。

 

  • 「花に降る」

「に」は対象を表す格助詞、「降る」は動詞「降る」の連体形です。

 

  • 「雨を思へり」

「を」は対象を表す格助詞「を」です。「思へり」は、動詞「思ふ」已然形「思へ」+存続の助動詞「り」終止形です。

 

  • 「都の雨に」

「の」は連体修飾格の助詞です。「に」は、間接目的語を示す格助詞です。

 

「馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことで、読むときもここで間をとると良いとされています。

 

この歌は「雨を思へり」のところで一旦文章の意味が切れます。四句目で切れていますので、「四句切れ」の歌となります。

 

倒置法

倒置法は、普通の言葉の並び方を反対にして、あえて逆さまに言葉を並べることで印象を強める働きのある表現技法です。

 

この歌では、「雨を思へり都の雨に(故郷の雨を思いだしていることだ。都の雨を見て。)」というところが、倒置法になっています。

 

(※通常の言葉の順番だと「都の雨に(故郷の)雨を思へり」となります)

 

ここは実にうまく倒置法の効果が使われています。

 

読者は「馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり」というところまで読んで、作者は馬鈴薯の花に降りかかる雨を見ているのだろうと予想できますが、結句の「都の雨に」の一言で、じつは馬鈴薯に降る雨は現実のものではなく作者の回想であること、作者が馬鈴薯畑ではなくそこから遠く離れた都にいることを知ることができます。

 

倒置法のおかげで一種の中で大きな転換が起こっており、作者の望郷の念がより強く伝わってきます。

 

「馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に」の鑑賞

 

この歌は、絵画のような美しさの感じられる歌です。

 

最初の四句で、読者は馬鈴薯の薄紫色の花、そこに降りかかる雨を想像します、淡い色合いのアンニュイな色彩イメージがあります。

 

ところが、作者は、「都の雨に」と結びます。馬鈴薯の花に降る雨の光景は、作者の追憶の中の景色であり、作者が現実に眺めているのは「都の雨」だったのです。

 

作者は故郷を遠く離れた異郷の地にあって、故郷を思い、今の故郷はどんな後継であろうかと想像を巡らせているのです。

 

作者にとって、故郷とはけっして甘美な思い出ばかりを思い出すところではなかったはずです。

 

しかし、懐かしい故郷に咲く花の美しさは変わらないと切ない望郷の念を抱いているのです。

 

「馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に」が詠まれた背景

 

石川啄木は、2回上京を試みています。1度目は病を得て志半ばに帰郷をしますが、2度目の上京で何とか職を得、住まいを得て家族を呼び寄せ、数年を暮らして東京で没します。

 

2度目の上京が明治41(1908)の春であり、歌集『一握の砂』には2度目の上京を果たして以降の歌が収められていることになります。

 

この歌集には、盛岡での学生生活を回想した歌や、望郷の思いを歌った歌、現実の生活の苦しさをうたった歌が多くおさめられています。

 

石川啄木の1度目の上京は明治35年(1902年)のことで、盛岡尋常中学校を自主退学した直後でした。学業不振や、学生によるストライキ活動への参加、カンニングをして譴責処分を受けた上での自主退学でした。あこがれていた『明星』歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻と知遇を得るなどもしたのですが、結核にかかり、父が迎えに来て帰郷したのでした。

 

2度目の上京は明治41年(1908年)です。このとき啄木は夫であり父でした。妻子を養うのは当然のこと、両親も含めた家計を支える立場にありました。渋谷村宝徳寺住職だった父が宗費を滞納し、罷免され寺を出なければならなくなったのです。啄木は、盛岡で教員として働いたり、知人の勧めで函館で職得たりとしましたが、どの職場も長続きはせず、創作活動への思いが募って函館から上京したといわれています。

 

函館から東京へ向かうときも、故郷渋民村を通ることを避けて航路をとったと言われます。

 

啄木が故郷に抱く思いは、素直な望郷の念ではなく、複雑に屈折したものだったことでしょう。

 

歌集『一握の砂』の「馬鈴薯の薄紫の花に降る…」の歌の少し前にある歌に、この歌とよく似た趣向の歌があります。

 

やはらかに やなぎあをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

(意味:やわらかな若葉が青い色で柳に芽吹く、北上川の岸辺の光景が自然と目に浮かんでくる。私に泣けと語り掛けるかのように。)

 

四句切れで、故郷を離れた土地で、今目の前にはない故郷の光景を追想して望郷の念を述べているところが共通しています。

 

歌集では「やはらかに…」と「馬鈴薯の…」の歌の間には、十八首の歌がありますが、故郷渋民村での出来事や、渋民村の人々を詠んだと思しき歌ばかりです。

 

世話になったであろう人や、幼い日の初恋を詠った歌もありますが、ほのぼのと美しい思い出につながるものはごくわずかで、結核に苦しむ村人、複雑な家庭環境の学友、暴力事件を起こし追放された教師、精神疾患を患った村人、戦死した意地悪だったこども、悲惨な末路を辿った縁者…暗い歌がびっしり詠まれているのです。

 

また、啄木は以下のような歌も詠んでいます。

 

「石をもて追はるるごとくふるさとを出いでしかなしみ消ゆる時なし」

(意味:石をもって終われるかのように、故郷を出てきた悲しみは消えることがない。)

「ふるさとの土をわが踏めば何がなしに足軽くなり心重れり」

(意味:ふるさとの土を踏みしめたら、なんとなく足取は軽くなり、心は重たくなるだろう。)

 

故郷への苦い思い、故郷に戻りたくても戻れない悲しみ、啄木にとっての故郷がとても複雑なものだったことが歌集を通して伝わってくるのです。

 

しかし、どんなに苦く、屈折した思いを故郷の人に抱いていようとも、故郷の山、川、花といった自然は人を裏切ることなく、時をたがえることなく、美しく故郷を彩っているだろうことを啄木は忘れませんでした。

 

作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木(いしかわ たくぼく)は岩手県出、明治時代に活躍した詩人・歌人です。本名は石川一(いしかわ はじめ)と言いました。明治19(1886年)、岩手県の住職の家に生まれました。

 

詩歌雑誌『明星』に傾倒、歌人の与謝野晶子らの短歌に心奪われます。

 

明治35年(1902年)に『明星』に初めて短歌が掲載され。文学へのあこがれやみがたく上京するものの、2年後に結核という病を得て、実家のある岩手県渋民村に戻ります。

 

啄木の人生は、病、貧困、困難、挫折の連続でした。1905年、渋民村を追われ、転居を余儀なくされます。村の寺の住職だった父の金銭トラブルのためでした。同じ年に、第一詩集『あこがれ』を刊行、中学時代に知り合った堀合節子と恋愛結婚をします。しかし、妻と啄木の母はそりが合わず、家族の不和も啄木を悩ませることとなりました。

 

啄木は生活のため、職や住まいを転々とします。親族や友人に金の無心をすることもありました。

 

盛岡や北海道での暮らしを経て、明治41(1908)、啄木は職場への不満や、創作活動へのあこがれから再び上京します。

 

新聞社に勤めながら創作活動も続け、明治43(1910)の大逆事件(幸徳秋水ら社会主義者たちが天皇暗殺を企てたとして一斉検挙された事件。)に大きく関心を持ちました。石川啄木は以前から社会主義に興味を持ち、傾倒していたともいわれています。

 

明治43年には、啄木にとっての第一歌集『一握の砂』を刊行しました。

 

しかし、啄木に穏やかで優しい時間は多くありませんでした。結核が悪化、明治45年(1912年)413日、石川啄木は亡くなりました。享年26歳。あまりにも早い死でした。啄木の家族もまた薄命でした。妻節子は啄木の死後一年ほどで他界。夫妻には、二人の娘と一人の息子がいましたが、息子は生まれて間もなく病死、娘二人も20歳前後で夭逝しています。

 

啄木の死後、友人たちの尽力により、第二歌集『悲しき玩具』をはじめとして、遺稿数点が書籍となって刊行されました。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)

 

  • 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
  • 砂山の砂に腹這い初恋のいたみを遠くおもひ出づる日
  • いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ
  • 頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
  • たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
  • はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る
  • 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ
  • ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
  • かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川
  • 石をもて追はるがごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし
  • ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな