古典文学の時代から日本に伝わる詩のひとつに短歌があります。
五・七・五・七・七の三十一文字で自然の美しい情景を詠んだり、繊細な歌人の心の内をうたい上げます。
今回は、ニューウェイブ短歌を牽引し、歌壇の枠を超えてエッセイストとしても活動。若者を短歌に引き寄せるのに大きな力を発揮している、穂村弘の歌「シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり永遠なんてどこにも無いさ」をご紹介します。
お気に入りの詩を紹介します。
穂村弘の
シャボンまみれの
猫が逃げ出す
午下がり
永遠なんて
どこにも無いさという詩です。
日常の情景を切り取りつつ、
若者特有の物憂げな気分を
上手く表現してて、
あーってなります。— すず (@poncysuzu) July 24, 2016
本記事では、「シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり永遠なんてどこにも無いさ」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり永遠なんてどこにも無いさ」の詳細を解説!
シャボンまみれの 猫が逃げ出す 午下がり 永遠なんて どこにも無いさ
(読み方:しゃぼんまみれの ねこがにげだす ひるさがり えいえんなんて どこにもないさ)
作者と出典
この歌の作者は「穂村弘(ほむらひろし)」です。
前衛短歌の感覚やアプローチはそのままに、「今」を扱い、日常語で表現するニューウェーブ短歌の第一人者です。
この歌の出典は『ドライ ドライ アイス』です。平成3年(1992)刊。『シンジケート』に続く第二歌集です。
現代語訳と意味(解釈)
この歌は、現代語の口語です。
「昼下がりに体を洗われるのを嫌って石鹸の泡まみれになった猫が逃げ出しいく。永遠なんてどこにもないってことなのさ。」
という意味になります。
猫にとっては体を洗われるのは嫌なことなので、永遠ではない限られた時間なのだから嫌なことを我慢する必要はないというシニカルな悟りの歌という解釈の仕方があります。
また、せっかく洗ってあげているのに逃げ出してしまうなんて猫にさえ気持ちが伝わらない、信じていた永遠もなかった、と猫が逃げたというそれだけのことで、世をはかなむ思いになってしまうという解釈もあります。
人によってこの歌の解釈のとらえ方は異なります。
文法と解説
- 「シャボンまみれの」
「シャボン」は石鹸のことです。「まみれ」は、名詞につく接尾語で、全体にそのものがついている様子を表します。
- 「猫が逃げ出す」
猫は、自分で毛づくろいをするので基本的に洗う必要ないそうです。猫の祖先が砂漠の出身なので、体が濡れていると夜に体温を奪われて命に係わるという本能から、濡れるのを嫌うという説もあります。
- 「午下がり」
午下がりは、一般的に昼下がりと表記し、正午を少し過ぎたころ、午後2時ころのことです。
明治・大正期に午食と書いて「ひるしょく」と読んでいたようです。
- 「永遠なんて」
永遠とは、始めも終わりもなく果てしなく続くことです。
- 「どこにも無いさ」
「無いさ」の「さ」から発話であることがわかります。話し言葉ですので「口語」です。
「シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり永遠なんてどこにも無いさ」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、意味や内容、調子の切れ目を指します。歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。」が入るところに注目すると句切れが見つかります。
この句は以下のように「午下がり」が体言ですので、意味が一旦切れます。
「シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり/永遠なんてどこにも無いさ」
上記のように、三句目の「午下がり」で切れていますので、「三句切れ」です。三句体言止めは古今和歌集で多くみられます。
口語の使用
口語とは、話し言葉のことで広い意味では現代語を指します。反対に、もっぱら読み書きに用いられる言葉を文語といいます。
口語を使用することで、気取りがなくさっぱりとした感じになります。読者が早いスピードで読むことができるという特徴もあります。一方で、口語は、幼さや柔らかさがあるともいわれます。
字余り
字余りとは、音数が定型である五・七・五・七・七をオーバーしていることです。あえて字余りにすることで目立たせたり歌の意味を強調したりすることもあります。
この句では、初句の「シャボンまみれの」が2文字オーバーの字余りです。
「しゃ」などの拗音は二文字ですが、一音で数えます。また、「ん」は撥音といい、一音で数えます。
「シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり永遠なんてどこにも無いさ」が詠まれた背景
穂村弘は昭和60年(1985)より作歌を始めました。
上智大学文学部に在籍していた24歳のときに連作「シンジケート」が角川短歌賞次席となります。
この歌は、第一歌集『シンジケート』、第三歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(うさぎ連れ)』という話題作に挟まれた第二歌集『ドライ ドライ アイス』に収められています。
穂村弘にとって比較的初期の作品集です。
「シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり永遠なんてどこにも無いさ」の鑑賞
【シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり永遠なんてどこにも無いさ】は、日常の風景を見たまま詠んだ歌です。
初句、「シャボンまみれの」は、字余りですが、「しゃ」や「ぼん」などが使われており、リズムよく読むことができます。また、石鹸の泡に全身おおわれているということが強調されて効果的に伝わります。
「永遠なんてどこにもないさ」と作者が逃げていく猫に向かって言ったと考えると、「永遠に洗われているわけではないのだから」「そんなに必死に逃げて」という苦笑が目に浮かびます。永遠なんてどこにもないさ、絶対にやらなきゃいけないことなんてないさ、あんなに嫌がっているのだからまあいいか、とおおらかな気持ちで逃げて行く猫を見送ったのでしょう。
また、猫に逃げられた自分自身に向けて言ったのであれば、思い通りになることなんてないかという諦めが感じられます。
猫が逃げ出したというそれだけのことなのに、永遠に世の中すべてのことがうまくいかないと作者は傷ついてしまいます。そして、猫にさえも気持ちが伝わらないみじめさが、無気力で投げやりな「無いさ」というつぶやきになったのではないでしょうか。
この歌は、中学生の国語の教科書に掲載されています。表現されている内容が現代的で、使われている言葉も口語であることから、子供たちにも共感しやすい親近感のある歌です。
作者「穂村弘」を簡単にご紹介!
穂村弘は、文語体で書かれることが一般的だった1990年代に、口語体で歌を詠んだニューウェーブ短歌の先駆けです。歌人としてだけでなく、エッセイや絵本など幅広く活躍しています。生年は1962年(昭和37年)で、北海道札幌市の出身です。
上智大学文学部に在籍中、大学の図書館で林あまりの短歌に出会って刺激を受けました。学生だった24歳のときに、角川短歌賞次席となります。
雑誌や新聞で短歌を募集する連載をしており、まとめたものが書籍にもなっています。一首ごとに良いところや感想のコメントが入っています。人が詠んだ短歌を読むのが楽しい(本人談)ということがよく伝わってきます。
従来の短歌の短歌らしさを超えて、爽快で破天荒な歌を詠む歌人です。
広い分野で活躍されている歌人の穂村弘さんによる「穂村弘書店」が、ジュンク堂広島駅前店のフェア台で開店中です。文芸や芸術、コミックなど、見応えのある棚です。池袋店でも開店中とのことです♪(tsubu) pic.twitter.com/WLQAcvfIrZ
— ベレ出版 (@beret_publish) May 22, 2014
「穂村弘」のそのほかの作品
- 体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ 雪のことかよ
- 「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
- 終バスにふたりは眠る 紫の<降りますランプ>に取り囲まれて
- 風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり
- オレンジの毛虫うねうねうねうねと波打っている こっちがあたま