【かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる】徹底解説!!意味や出典・鑑賞・鑑賞文など

 

短歌は31文字と短いですが、その中で詠み手は言葉選びを工夫して自分の思いを表現します。短歌は限られた文字数だからこそ奥が深く、面白味があると言えます。

 

今回は武将が自らの覚悟を詠んだ歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」を紹介します。

 

 

本記事では、「かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」の意味や出典・鑑賞・作者などについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」の詳細を解説!

 

かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる

(読み方:かえらじと かねて おもえば あづさゆみ なきかずにいる なをぞとどむる)

 

作者と出典

この歌の作者は南北朝時代の武将「楠木正行(くすのき まさつら)です。

 

(楠正行弁の内侍を救ふ図 出典:Wikipedia)

 

南北朝時代とは鎌倉時代と室町時代の間にあたる期間で、朝廷が南朝と北朝に分かれて対立していた時代を言います。楠木正行は南朝に仕える武将でした。父は「大楠公」と呼ばれる楠木正成で、南朝に忠義を尽くした名将です。このため正行は「小楠公」と呼称されることもあります。

 

正行自身も南朝のために戦い、北朝側の軍に幾度も勝利を収めました。しかし高師直(こうの もろなお)率いる大軍との戦いでついに敗れ、自害したと伝えられています。

 

この歌の出典は「太平記」という軍記物語です。

 

軍記物語とは、合戦を主なテーマとして時代の移り変わりを記した歴史文学です。「太平記」には鎌倉幕府の衰退、南北朝時代の争乱の様子が書かれています。日本の歴史文学の中で最も長い物語とされ、武将個人にスポットを当てて生き様を魅力的に描いているのが特徴です。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「生きて帰ることはないと決意していたから、死者の仲間入りをする自分達の名を書き残しておくのだ。」

 

この歌は合戦の前に詠まれたもので、「太平記」によると楠木正行は勝ち目のない戦いだと考えていたようです。歌には、戦って死ぬのだという覚悟と決意が表されています。

 

(水野年方画「楠正行」 出典:Wikipedia)

 

文法と語の解説

  • かへらじと

帰らないだろうと、という意味です。「かへる(帰る)」の未然形「かへら」と、打消の推量を表す接続助詞「じ」からなります。また「かへる」は弓の縁語である「返る」との掛詞としても使われています。

 

  • かねて思へば

「かねて」は、前もって・あらかじめという意味です。「思へば」は、思うので、という意味です。「思ふ」の已然形「思へ」と、理由を表す接続助詞「ば」からなります。

 

  • 梓弓

枕詞で「あづさゆみ」と読みます。「射る」「引く」「張る」「弦」「音」などにかかる言葉です。「梓」は弓の材質となる木の名称です。枕詞は特定の言葉にかかって語を修飾したり、口調を整えたりといった働きをします。和歌の情緒を高める働きもありますが、現代語訳するときは訳に含めないのが一般的です。

 

  • なき数にいる

死んだ人の仲間入りをする、ということで漢字では「亡き数に入る」と書きます。「数」には「グループに属するもの」「仲間」という意味があります。また「いる」は「入る」と、弓の縁語である「射る」との掛詞になっています。

 

  • 名をぞとどむる

名を書き残していくのだ、という意味です。「ぞ」は係助詞で「とどむる」と係り結びになり、この言葉を強調しています。「とどむる」は「とどむ(留む)」の連体形で「あとに残す」といった意味があります。

 

「かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」が詠まれた背景

 

この歌は、楠木正行が高師直との合戦の前に詠んだ辞世の句と伝えられています。その時の様子が「太平記」では以下のように語られています。

 

高師直を総大将とした北朝側の兵は6万、正行が率いる南朝の兵は3千でした。出陣の前に正行は一族と共に、奈良の如意輪寺に参詣をします。そして過去帳に皆の名前を書き、本堂の扉に矢の鏃(やじり)でこの歌を刻みました。

(出典:太平記)

 

過去帳とは故人の名前を記すものです。正行は、自分たちは死ぬことが決まっているのだと考えて、あらかじめ過去帳に名前を書き残したのです。

 

とうてい勝ち目はない、生きては帰れない戦いだと、正行が死を覚悟していたことを伝えるエピソードです。

 

しかし、詠まれた歌からは悲しみや辛さなどは伝わってきません。そこから伝わるのは、戦場に赴く武士の決意ではないでしょうか。辞世の句を鏃で刻み込むという行為は力強さを感じさせます。

 

 

「かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」の鑑賞

 

歌中の「かへる(返る)」「いる(射る)」は、弓と関係の深い言葉です。このように関係の深い言葉を「縁語」と言いますが、この歌では弓の縁語を「帰る」「入る」との掛詞として使っています。この歌は枕詞の「梓弓」とともに、弓に関係のある言葉を選んで作られています。

 

弓は当時の合戦になくてはならないものです。武将の正行は弓にまつわる言葉を和歌に入れて、名を残していく自分たちが武士であることを強調したかったのかもしれません。

 

また、射られた矢は戻って来ることはありません。自分たちは矢のように真っすぐに飛び出して二度とは帰らないのだという意志も感じられます。

 

「名をぞとどむる」は係り結びを用いて強調されています。後世に名を残すことは武士にとって大きな名誉でした。主君への忠義のために戦って死ぬ、そして名を残すのだという正行たちの誇りが表れていると言えます。

 

作者「楠木正行」を簡単にご紹介!

(狸の妖怪を退治する若き楠木正行 出典:Wikipedia)

 

楠木正行は、西暦1340年頃に活躍をした南北朝時代の武将です。

 

父は南朝の名将楠木正成で、北朝の足利尊氏との戦で戦死しています。南朝のために尽くすようにとの正成の意志を継いで、正行もまた忠義の心で南朝に仕えました。

 

正成は知恵と勇猛さを兼ね備えた武将ですが、正行もまた父譲りの優れた智将でした。数で勝る北朝の軍を策を用いて立て続けに打ち破ります。北朝側は正行を「人智を越えている」と言って恐れたそうです。

 

1348年、北朝側は正行を破るため、高師直を総大将とした大軍を南朝へ侵攻させました。正行は大将として大軍を迎え撃ち、一度は敵を後退させて師直を追い詰めることに成功します。

 

しかし、圧倒的な兵力の差に押されて力尽き、もはやこれまでと副将であった弟と刺し違えて自害をしました。23歳の若さだったと伝えられています。

 

楠木正行のその他の作品

 

  • とても世に 永らふべくも あらぬ身の かりの契りを いかで結ばむ