昭和の歌人山崎方代は自分の家や定職を持たず、放浪しながら自身の生活についての歌を詠み「漂泊の歌人」と呼ばれました。
彼の歌とその自由な生き方は現代でも多くの人に愛されています。
今回はそんな山崎方代の短歌「そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか」を紹介します。
そこだけが黄昏ていて一本の指が歩いてゆくではないか
山崎方代
1103 pic.twitter.com/L3MhfyVELk— Pippo(official) (@pippoem2) May 10, 2017
本記事では、「そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか」の詳細を解説!
そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか
(読み方:そこだけが たそがれていて いっぽんの ゆびがあるいて ゆくではないか)
作者と出典
この歌の作者は「山崎方代(やまざき ほうだい)」です。
大正から昭和を生きた歌人です。各地を放浪しながら気ままに生きて、自身の生活や故郷への思いを歌に詠んだ生涯から「漂泊の歌人」「望郷の歌人」と称されることもあります。彼の歌のほとんどは話し言葉である「口語体」で書かれています。孤独な生活を短歌にしたものが多いですが、決して寂しいだけではなく、その孤独を楽しんでいるような明るさを持っていることが特徴です。
この歌の出典は「右左口」です。
「右左口」は方代が生まれた村の名前で「うばぐち」と読みます。「右左口」は方代の第二歌集で、彼が60歳の折に出版されたものです。口語で書かれた短歌はまるで一人暮らしのおじさんのつぶやきのようで親しみやすく、「右左口」には時にクスッと笑ってしまうような歌が多く収められています。
現代語訳と意味
この歌は現代語で書かれているので意味はそのまま取ることができます。
少しわかりやすく書くと・・・
「そこだけに黄昏時の陽が当たっていて、まるで一本の指が歩いてゆくように見えるではないか。」
といった内容になります。
「そこだけが」とあるからには他は既に暗く、沈もうとしている夕日のわずかな光が一ヵ所だけに当たっているのでしょう。その一ヵ所というのが「作者自身の指」です。
作者は日が沈む暗い中を歩いており、自分の指だけが照らされているのを見て、指が意志をもって歩むかのようだと感じたのではないでしょうか。
文法と語の解説
- そこだけが
「そこ」は話し手が「それ」と指し示せるような範囲の所を言います。「だけ」はそのこと一つに限るという意味の言葉で、前の言葉を強調する働きもあります。
- 黄昏れていて
「黄昏(たそがれ)」は「黄昏時」の略で、元は「誰そ彼(たそかれ)」と書き、人の顔の見分けがつかないような暗い夕暮れ時のことを言います。「黄昏れ」は黄昏を動詞にしたものの連用形、「て」は助詞、「いて」は動作や現象が継続していることを表す「いる」の連用形です。
- 一本の指が歩いて
「本」は棒状の長いものを数える語です。
「歩いて」は動詞「歩く」の連用形「歩き」に、接続助詞の「て」が付いた形です。「指が歩く」は擬人法の表現で、指が歩いているように見えることを表します。
- ゆくではないか
「ゆく」は「行く」と同じ意味で、前方へ向かって進む様子を言います。「ではないか」は驚きや非難、怒りなどを強調する文末表現です。この歌では驚きの意味で使われています。
「そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか」の句切れと表現方法
句切れ
歌全体が一つのまとまりであり文章としての切れ目がないため、この歌は「句切なし」です。
擬人法
擬人法とは、人ではないものを人に見立てて表現する技法のことで、物事に性格や性質をイメージさせて読み手に印象づける効果があります。
この歌では「指が歩いてゆく」の部分が擬人法で「まるで指が歩いて行くように見える」ことを表しますが、歩くという動作が指の意志であるような印象となっています。
また謎かけのような表現になっており、読者の興味を引きつける働きもしています。
「そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか」が詠まれた背景
この歌が詠まれた頃、作者の山崎方代は鎌倉に住んでおり、日雇いの仕事か、鎌倉の山中で食べられるものを採るなどして暮らしていました。この歌を詠んだ時もどこかへ出かけた帰り道だったと考えられます。
夕暮れの暗い帰り道、沈みかけた陽の光が日が木の陰などから見え隠れする場所を歩いていて、方代はふと自分の指に光が当たっていることに気が付いたのでしょう。
そこ以外は暗いけれども、その指一本には日が当たって移動している、それはまるで指が歩いているようだと方代は感じてこの歌を詠んだのではないでしょうか。
「そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか」の鑑賞
この歌は、「夕暮れの薄暗がりの帰り道を歩いていると、沈みかける夕日の光が木々の間からわずかに見える。ふと気付くと隙間を通ってきた光が自分の手の指に当たっている。暗闇に指だけが照らし出されている様子は、まるで指が歩みを進めているようではないか」といった内容で、指が歩いているように見えることへの驚きが込められています。
この歌を作った時、方代は50代半ばを過ぎています。暗い帰り道では疲労や寂しさを感じていたかもしれません。しかし一本の指に光が当たり、その指は意志を持って黙々と歩み続けているように彼には見えました。そして暗闇の中で一筋の光に照らされ歩む指の姿にはっと驚くような感動を覚えたのでしょう。
指がどの指なのか書かれてはいませんが、人差し指ではないかと感じられます。人差し指は方向や物を指し示すなど、自分の気持ちや意志を表す動きをするものです。方代は指に感じた意志は自分の意志であり、歩む指は自分自身だと感じてはっとしたのではないでしょうか。
周りが暗くても一筋の光が自分には当たっている、それは黄昏時の弱い光かもしれないが自分を励ますような光なのだと方代は思ったのかもしれません。この歌からは意志を持って歩いてゆく方代自身の誇りが感じられます。
作者「山崎方代」を簡単にご紹介!
山崎方代は大正3年(1914)年に山梨県の右左口村で生まれました。
8人兄弟の末っ子でしたが方代が生まれた時には兄弟のうち5人が既に亡くなっていました。方代という名前は、両親の「我が子に生きて欲しい、生き放題、死に放題、好き放題に自由に生きて欲しい」という願いがこめられているそうです。
成長した方代は太平洋戦争に出征して、右目を失明しながらも生還しました。その後彼は歌を詠みながらの放浪生活を始めます。家も家族も持たないたった一人のその日暮らしです。
方代は15歳の頃には短歌を作り、短歌雑誌などにも寄稿していましたが世間に名前が知られていたわけではありません。40代で初めての歌集を自費出版しますが歌壇の反応は薄く決して裕福ではありませんでした。しかし方代は人懐こい性格で、誰からも親しまれるような不思議な魅力があり、行く先々で世話を焼いてもらうので生活に困窮するということはあまりなかったようです。
晩年は鎌倉の知人に家を世話してもらい、昭和60年(1985年)に肺がんで亡くなるまで鎌倉に暮らしながら歌を詠みました。生き放題に自由に生きた方代の歌は、生活で感じたことを口語体で表現していて共感しやすく、シンプルだからこそ深みのある表現が評価され、現代では国語の教科書にも取り上げられるなどして広く知られています。
山崎方代のその他の作品
- 手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る
- 一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております
- ふるさとの右左口郷は骨壺の底にゆられてわがかえる村
- 寂しくてひとり笑えば卓袱台の上の茶碗が笑い出したり
- 夕日の中をへんな男が歩いていった俗名山崎方代である