【海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

万葉の時代より人々の心を映し、親しまれてきた日本の伝統文学「短歌」。

 

「五・七・五・七・七」の三十一文字で、歌人の心情を表現する叙情的な作品が数多く残されています。

 

今回は、「昭和の啄木」とも称された歌人・寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」をご紹介します。

 


本記事では、「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」の詳細を解説!

 

海を知らぬ 少女の前に 麦藁帽の われは両手を 広げていたり

(読み方:うみをしらぬ しょうじょのまえに むぎわらぼうの われはりょうてを ひろげていたり)

 

作者と出典

この歌の作者は、「寺山修司(てらやましゅうじ)」です。

 

寺山氏は昭和時代後期に活躍した歌人です。短歌だけでなく、戯曲やシナリオ、小説など、幅広い分野で才能を発揮しました。

 

また、この歌の典拠は、1958年(昭和33年)に刊行された第一歌集『空には本』です。

 

この歌集には、当時18歳であった寺山が『短歌研究』で新人賞を受賞した「チェホフ祭」などの連作が収録されています。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「海をみたことがない少女の前で、その広さを伝えようと麦藁帽子をかぶった私は、両手をいっぱいにひろげている。」

 

という意味になります。

 

寺山修司の初期の代表作として広く知られ、教科書にも取り上げられている名歌です。

 

まだ海を間近で見たことがないという少女も、海の広さを言葉だけでなく両手を使って伝えようとする少年もほほえましく、二人の心の通い合いがなんとも初々しい一首です。

 

文法と語の解説

  • 「知らぬ」

動詞「知る」の未然形「知ら」に+打消・否定の助動詞「ぬ」がついた形です。

 

  • 「広げていたり」

複合動詞「広げている」+存続を表す助動詞「たり」がついた形式です。「広げている」と解釈します。

 

「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」の句切れと表現技法

句切れ

この歌には句切れはありませんので、「句切りなし」となります。

 

あどけなさが残る少女と少年のやりとりを、まるで映画のワンシーンのように途切れることなく歌い上げています。

 

字余り(初句・三句)

字余りとは、「五・七・五・七・七」の形式よりも文字数が多い場合を指します。あえてリズムを崩すことで、結果的に意味を強調する効果があります。

 

一般的に、字余りは一首の中で一ヶ所だけに用いられることが多いのですが、この歌には初句と三句の二箇所に用いられています。

 

「海を知らぬ」とはなぜなのだろうかと読み手の想像力を膨らませ、夏の思い出が伴う「麦藁帽」からは郷愁と抒情が呼び起こされます。

 

いずれも「少女」「われ」を修飾する句にあえて字余りを使うことで、二人の姿を印象強くしています。

 

「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」が詠まれた背景

 

この歌は寺山が17歳の時に詠んだもので、海辺の町で生まれた「われ」が山峡で暮らす「少女」に海の広さについて語る姿を描いたものだと述べています。

 

「海を知らない」というのは幼さゆえではなく、体が弱く外の世界を見たことがなかったからかもしれません。

 

寺山は他にも【海の記憶もたず病みいる君のためかなかな鳴けり身を透きながら】という歌も詠んでおり、この歌の少女も体が病弱で、山間の澄み切った空気のもと療養生活を送っていたのではないかと推測できます。

 

現に、後年発表した『少女詩集』収録の「海を見せる」で作者自身がこの短歌について解説をしており、入院生活を送る少女へ海を見せようと、バケツに海の水を汲んで持っていったというエピソードが語られています。

 

寺山の作風として、自身の心情を短歌に託すという告白性を嫌い、あくまで自己表現の一手段として現実と虚構が入り混じる世界を構築していく傾向がありましたが、この歌を含む初期の作品は、素直に自分の気持ちをぶつけている様子が見て取れます。

 

多少の虚構はあるかもしれませんが、無垢な少年少女の青春をみずみずしく描いた美しき作品です。

 

「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」の鑑賞

 

海を知らない少女に、麦藁帽子の少年が「海はこんなに広いんだ」とその大きさを伝えようとする微笑ましい情景が目に浮かんでくるようです。

 

この歌に登場する「われ」は、海を見たことがある経験や知識を自慢げに話しているわけではないでしょう。それよりも少女の関心を惹こうと精一杯両手を使って伝える姿に、ほのかな恋の雰囲気が詠み取れます。

 

しかし、この歌にはもう少し違った解釈もあります。「両手をひろげる」という動作を海の雄大さを伝えるものではなく、少女の道を通せんぼしているのではないか、というものです。

 

三句目の「少女の前に」という表現には、少女の視界を遮るような印象を受けます。さらに「広げていたり」と存続を表す表現に、瞬間的に両手を広げたのではなく、時間の継続を感じさせます。

 

海を見たい、つまりここを出て外の広い世界を見てみたいという少女に対し、麦藁帽を深くかぶり表情を隠したまま「行かないで」と両手を広げる少年。稚拙な行動で引きとめようとする彼自身も、実際は海を見たことがなかったのかもしれません。

 

読み手によってさまざまな解釈のできる味わい深い歌です。

 

作者「寺山修司」を簡単にご紹介!

(三沢市にある寺山修司記念館 出典:Wikipedia

 

寺山修司(1935年~1983年)は、昭和の時代を駆け抜けた歌人であり、「言葉の錬金術師」とも称されました。

 

警察官の父・八郎と母・ハツの長男として生まれ、少年時代は青森県で過ごします。しかし1945年、父はセレベス島で戦病死したとの報せを受け、母は進駐軍の米軍キャンプで働きました。

 

中学2年の頃、友人であった京武久美の影響により俳句を作りはじめます。早稲田大学入学後も短歌活動を続けていましたが、1954年『短歌研究』に掲載された中城ふみ子の「乳房喪失」に感銘を受け、本格的に詩作に励むようになります。

 

同雑誌の「第2回作品五十首募集」に応募し、「チェホフ祭」で新人賞を受賞、18歳にして華々しい歌壇デビューを飾りました。19歳の時、ネフローゼ症候群のため長期入院を余儀なくされますが、療養中も第一作品集『われに五月を』を刊行します。

 

初期の作品は、青春時代の心情を大らかに歌い上げていましたが、次第に「私の虚構化」が顕著になっていきます。自身の経験を歌うことに重きをおいていた短歌の世界で、虚構を物語ろうとした新鮮な手法は、当時の歌壇にも大きな影響を与えました。

 

1958年『空には本』、1962年『血と麦』、1965年『田園に死す』の三冊の歌集を刊行していますが、寺山が精力的に短歌を作り続けたのは、デビューから10年あまりに過ぎませんでした。

 

その後は表現の場を映画、作詞、演劇、写真など、あらゆる分野に広げていき、生涯で膨大な量の文芸作品を発表しています。中でも演劇には情熱を傾け、「天井棧敷」を主宰し国際的にも大きな反響を呼びました。

 

晩年は肝硬変のため入院、1983年に47歳という若さでこの世を去りました。

 

「寺山修司」のそのほかの作品

(寺山の墓 出典:Wikipedia)