【森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

日本特有の梅雨という鬱々とした季節を、美しくあでやかに、そして静かに彩る花、紫陽花。

 

瑞々しい明るさ、どこか怪しげな美しさ、色が次々と移り変わることから連想されるはかなさ、心情を投影したほの暗さ。紫陽花は私たちにさまざまな印象を与えてくれます。

 

そんな紫陽花の花は、特に近現代において、短歌のモチーフとしてたびたび取り上げられており、現代でも人気の高い名作が数々生まれています。

 

今回は、「言葉の錬金術師」の異名をもち、短歌だけにとどまらず俳句・詩・シナリオと表現世界を広げていった、寺山修司の歌「森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」をご紹介します。

 

 

本記事では、「森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」の詳細を解説!

 

森駈けて きてほてりたる わが頬を うずめんとするに 紫陽花くらし

(読み方:もりかけて きてほてりたる わがほおを うずめんとするに あじさいくらし)

 

作者と出典

この歌の作者は「寺山修司(てらやましゅうじ)」です。

 

高校時代には俳句を作り始め、大学時代に短歌、その後は詩・シナリオなど多彩な活躍を見せた人物です。

 

 

この歌の出典は『空には本を』です。

 

昭和33(1958)刊。寺山修司の第一歌集として刊行されたものです。この歌は、寺山が15歳の頃詠まれた歌だと言われています。

 

現代語訳と意味 (解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「森を駆けてほてって熱くなっている頬を埋めようとするが、紫陽花の花の色は暗い」

 

という意味になります。

 

この歌を詠んだとき、寺山は15歳。「森駈けてきてほてりたるわが頬を」でわけもなく抑えきれない青春の激情を感じさせます。

 

それは燃えたぎる恋情かもしれませんし、鬱々とした将来への不安かもしれません。「うずめんとするに紫陽花くらし」とあるので、「頬を埋めようとするが、紫陽花の色が暗くて埋められなかった」のです。

 

紫陽花の花で抑えることができなかった行き場のない激情はどこに向かったのでしょうか?歌の中で結論が出ていませんが、そのことこそが、若き寺山の心情を表していたのではないでしょうか。

 

文法と語の解説

  • 「森駆けてきて」

森の中を駆けてきて、という意味。

 

  • 「ほてりたる」

ほてる+たり。「たり」は完了と存続を表す助動詞です。ここでは「ほてっている」の存続。

 

  • 「うずめんとするに」

「うずめん」は「うずめる」の未来形。「とする」をつけて、「うずめようとする」の意味。「するに」の「に」は、接続助詞「のに」の一部で逆説を表します。

 

  • 「紫陽花くらし」

「くらし」は暗いという意味。紫陽花と「くらし」の間には、主格の「は」が省略されています。

 

「森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことで、読むときもここで間をとると良いとされています。

 

この句に句切れはありませんので、「句切れなし」です。

 

句またがり

文節の終わりと句の切れ目が一致しないとき、これを「句またがり」と呼びます。

 

句またがりは、短歌のように句数の定まった定型詩で使われる技法です。

 

「森駆けてきてほてりたる」を文節で句切ると「森駆けてきて(7文字)」「ほてりたる(5文字)となるので、「句またがり」となります。歌のリズムを効果的に変化させ、印象を残りやすくしています。

 

「森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」が詠まれた背景

 

寺山修司は中学生の頃から短歌を作り始め、18歳で雑誌『短歌研究』の新人賞に応募して見事に受賞、華々しく歌壇にデビューしました。

 

この歌は寺山15歳頃の作だと言われており、かなり初期の作品だと言えるでしょう。

 

寺山修司と言えば、短歌の告白性を嫌った歌人として知られています (自分自身を短歌に投影するのではなく、架空の「自分」を作り上げ、短歌に投影する)。また、家族を詠んだ短歌においては、ほぼ架空の家族像を創作しています。

 

ただし、中学時代から高校時代にかけての作品を読むと、かなりおおらかに自分の気持ちをぶつけている様子が見てとれます。

 

この作品については、「紫陽花」を本当に見たのかは定かではありませんが、自分自身の素直な気持ちを表現した歌になっていると思われます。

 

「森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」の鑑賞

 

寺山の短歌には、自分自身を短歌に託すというよりも、あくまで自己表現の一手段として、フィクションの世界として構築されているという特徴があります。

 

ただし、この歌を含む初期の作品については青春を高らかに詠い上げた瑞々しさが特徴で、多少の虚構性はあるにせよ、少年時代にしか詠めない素直な作品群であると言えます。

 

「森駆けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」

 

紫陽花が咲いているので、6月頃の湿気が多い蒸し蒸しとした森の中。抑えきれない激情を鎮めようと走る寺山Tシャツは、汗でべたつき、その匂いが少年を突き動かし、彼はさらに走り続けたのでしょう。足を止めた先で見つけた紫陽花の色は暗く、寺山は、そこに顔を埋めることができませんでした。

 

抑えることのできない、ほとばしるような気持ちを、雨に濡れて瑞々しく美しい紫陽花に鎮めてもらおうと思ったのに、その紫陽花の花の色は暗く、立ち尽くすしかない。暗い紫陽花の色は、寺山の心のうちを投影したものかもしれません。

 

自分でコントロールすることができない激情、閉塞感。この歌は当時の寺山と同世代の中高生に最も響く歌なのではないでしょうか。

 

作者「寺山修司」を簡単にご紹介!

(三沢市にある寺山修司記念館 出典:Wikipedia

 

寺山修司は、昭和の中ごろから歌人、詩人、シナリオライター、映画監督など多彩な方面で活躍した人物です。生年は昭和10(1935)で、警察官の父、寺山八郎と妻のハツの長男として生まれました。

 

幼少のころはマンガやイラストを描き、少年期には友人と俳句の雑誌を作るなど、積極的に表現活動に取り組んでいました。

 

多方面で才能を発揮しましたが、青年期にはネフローゼで長く入院生活を送ることになります。その入院中に作品集や歌集を発表します。

 

「俳句や短歌は一人で取り組むもの、みんなで一つの作品を作り上げることに魅力を感じるようになった」とのちに語っているように、退院後はシナリオを描いたり映画を撮ったりするようになります。

 

晩年は、肝硬変に苦しみながらも映画撮影や執筆を行い、昭和58(1983)享年47歳という若さで死去しました。

 

「寺山修司」のそのほかの作品

(寺山の墓 出典:Wikipedia)

 

  • ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し
  • 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
  • マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
  • 君が歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えんとする
  • 売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき