短歌にはさまざまな情景が詠み込まれます。
風景から移りゆく季節を感じ、その感慨を表現したものもその一つです。
今回は秋の終わりの情景を詠んだ「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」という歌を紹介します。
薬師寺 西塔の近くにある、佐佐木信綱 歌碑。
ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の
塔の上なる ひとひらの雲 pic.twitter.com/HaYUqc3yGD— kaol, n. (@kaol) January 31, 2014
本記事では、「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」の詳細を解説!
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲
(読み方:ゆくあきの やまとのくにの やくしじの とうのうえなる ひとひらのくも)
作者と出典
(佐佐木信綱 出典:Wikipedia)
この歌の作者は「佐佐木信綱(ささき のぶつな)」です。
明治から昭和にかけて活躍した歌人で、「万葉集」の研究をした学者でもあります。短歌の他にも、多くの童謡や唱歌、校歌の作詞もしています。彼の短歌は穏やかで上品な内容のものが多く、前向きで優しい印象があります。また、信綱は「竹柏会」という歌人の会を設立し、多くの歌人を育てたことでも知られています。信綱が竹柏会で立ち上げた短歌雑誌「心の花」は現代まで出版され続けています。
この歌の出典は「新月」です。
「新月」は佐佐木信綱の第二歌集で、30代頃に作られた歌が収められています。学者で古典の知識の豊富な信綱が和歌の伝統を大切にしながら風景を見つめ、しかし分かりやすい言葉で情景を表現した歌を読むことができます。
現代語訳と意味
この歌を現代語訳すると・・・
「過ぎ行く秋の奈良の薬師寺の塔の上にある一片の雲よ。」
という意味になります。
晩秋に奈良の薬師寺の塔を見上げたら、そこに雲がひとひら浮かんでいたのだという意味です。
「ひとひらの雲」と体言止めを用いて「雲よ…」と余韻を残して歌を終わらせています。薬師寺の塔の上に漂う雲を見上げ、過ぎゆく秋に思いを馳せた歌です。
ゆく秋の
大和の国の薬師寺の
塔の上なるひとひらの雲 pic.twitter.com/DMhcMVdHdS— tohoku1208 (@tohoku1208) September 30, 2017
文法と語の解説
- ゆく秋
過ぎ行く秋といった意味です。「ゆく」は漢字で「行く」「往く」と書き、向こうの方へ移動する、離れていく、出発するなどの意味があります。「ゆく秋」は秋の終わり、晩秋を表しています。
- 大和の国
「大和国(やまとのくに)」は奈良県とその周辺を含んだ地域の旧名です。またその地域で大和政権が興ったことから、日本全体を表す言葉としても使われます。
- 薬師寺
飛鳥時代後期から奈良時代にかけて建立された、奈良県にある寺院です。歴史の中で西塔や金堂などの多くの堂塔が失われましたが、再建され現在では建立当時の姿に戻りつつあります。唯一東塔だけが失われずに残った奈良時代の建築物です。
- 塔の上なる
塔のうえにある、という意味です。薬師寺には東塔と西塔がありますが、信綱がこの歌を作った頃はまだ西塔が再建されていないので「塔」は東塔を指します。「なる」は助動詞「なり」の連体形です。場所や地名の後に付いて「~にある」「~に居る」という所在を表します。
- ひとひらの雲
一片の雲という意味です。「ひとひら」は漢字で「一枚」「一片」と書き、薄く平らなものが一枚ある様子を表す言葉です。
「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」の句切れと表現方法
この歌に句切れはありません。全体で秋の情景を表現しており、途中で目線が変わったり、作者の感想が述べられたりといった文章の切れ目はありません。
また、この歌の「ひとひらの雲」の「雲」は体言止めです。「雲」に注目して歌を終わらせ余韻を残すとともに、過ぎ行く秋への感慨を深めています。
「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」が詠まれた背景
この歌は作者の佐佐木信綱が30代後半の折、奈良を訪ねた時に詠まれたものとされています。秋の深まる古都奈良で、信綱は薬師寺を訪れ東塔を拝観したのでしょう。
薬師寺の東塔は三重の塔で、各階の屋根に裳階(もこし)と呼ばれる小ぶりの飾り屋根が付いています。最上階の屋根からは九輪(くりん)という飾り柱が空へ真っすぐに立っています。東塔はこの大小の屋根が重なったバランスと、空へ伸びる飾り柱のシルエットが相まって、整った美しい姿をしています。
また、薬師寺の周辺には高い建物がありません。信綱は奈良の山や空を背景に建つ東塔の姿に感動し、塔を見上げて飾り柱の上に浮かぶ薄い雲を見つけたのでしょう。
そして行き過ぎようとする秋と薬師寺への感慨を一片の雲に込めて歌を詠んだのかもしれません。
「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」の鑑賞文
この歌では晩秋を「ゆく秋」とすることで、単に季節が秋だという状態を表すのではなく「終わろうとしている、過ぎようとしている秋」と秋が移動をしているように表現しています。行く秋を惜しむ気持ちを感じさせます。
また、この歌には助詞の「の」が6回使われています。「の」を繰り返すことで、声に出して読んだ時に言いやすい、心地の良いリズムが生まれています。
歌全体には、広い景色から一つの雲へとカメラがズームしていくような印象があります。シーンである秋の終わり、そこから奈良、そこにある薬師寺、薬師寺の東塔、そして塔を見上げていけば、そこに一片の雲、と映像がズームするような構成になっています。繰り返される「の」によって、読み手にも「雲」までの景色が途切れることなく伝わります。
晩秋の薬師寺で作者が東塔と雲を見上げたことを、読み手も歌を通して追体験ができるような歌です。
秋の終わりの風景や東塔のことが読んだ後も心に残る、味わい深い作品です。
作者「佐佐木信綱」を簡単にご紹介!
(佐佐木信綱 出典:Wikipedia)
佐佐木信綱(ささき のぶつな)は、明治5年(1872年)に三重県で生まれました。本来の名字は「佐々木」と書きます。
信綱は中国を訪れた際に名刺を作ったことがあり、「佐佐木」と印刷されてしまいましたが、字面を気に入ったため以降「佐佐木」という表記を使うことにしたと言われています。
信綱の父は学者で歌人としても活躍していました。信綱も父に教わって幼少の頃から短歌を作り、「万葉集」などの和歌を好みました。成長してからは「万葉集」の研究にも取り組みます。
「万葉学」という「万葉集」を中心として歴史や民俗学などを研究する学問がありますが、この学問を確立させたのは信綱だとも言われています。また信綱は歌人の団体である「竹柏会」を作り、短歌作りの指導にも当たりました。
信綱は昭和38年(1963年)に91歳でなくなりますが、生涯「万葉集」を研究し、歌を作り、歌人を育成し続けました。個性を大事にして自由な歌作りを推奨する竹柏会からは多くの優れた歌人が誕生しています。竹柏会で発行した短歌雑誌「心の花」は信綱亡き後も刊行を続け、現在まで100年以上にわたって短歌を愛する人々に親しまれています。
佐佐木信綱のその他の作品
- 幼きは 幼きどちの ものがたり 葡萄のかげに 月かたぶきぬ
- 願はくは われ春風に 身をなして 憂ある人の 門をとはばや
- 人の世は めでたし朝の 日をうけて すきとほる葉の 青きかがやき
- 白雲は 空に浮べり 谷川の 石みな石の おのづからなる
- 春ここに 生るる朝の 日をうけて 山河草木 みな光あり