【ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

言葉の錬金術師・青春のカリスマなどの異名を持つ「寺山修司」。

 

彼は短歌・評論・戯曲の執筆の他、テレビやラジオ出演など、多彩な能力を発揮した昭和の文化を象徴するような人物です。

 

今回はそんな寺山修司の名歌「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん」をご紹介します。

 


 

本記事では、「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん」の詳細を解説!

 

ころがりし カンカン帽を 追うごとく ふるさとの道 駈けて帰らん

(読み方:ころがりし かんかんぼうを おうごとく ふるさとのみち かけてかえらん)

 

作者と出典

この歌の作者は、「寺山修司(てらやましゅうじ)」です。

 

十代前半から短歌を詠み始め、早稲田大学在学中、連作「チェホフ祭」で衝撃的に文壇に登場しました。

 

この歌の出典は、昭和46(1971)に刊行された『寺山修司全歌集』(初期歌篇)です。「初期歌篇」は寺山修司が高校生の頃に詠んだ作品群です。

 

また、この歌は昭和47(1972)に刊行された『寺山修司青春歌集』にも収められています。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「ころがっていくカンカン帽を追いかけるように、ふるさとの道を走って帰ろう。」

 

となります。

 

軽やかでスピード感のある、瑞々しい短歌です。

 

文法と語の解説

  • 「ころがりし」

「ころがりし」は動詞「ころがる」+過去の助動詞「き」の連体形「し」です。

 

  • 「カンカン帽を」

「を」は格助詞です。

「カンカン帽」とは、天井とつばが平らになった男性用の麦わら帽子で、明治の末期から昭和初期の頃、多くの男性が和装、洋装を問わず身につけていました。

 

  • 「追うごとく」

「追う」は動詞「追う」の連体形「追う」+同等の助動詞「ごとし」の連体形「ごとく」

 

  • 「ふるさとの道」

「の」は格助詞です。

 

  • 「駈けて帰らん」

「駈けて」は、動詞「駈ける」の連用形「駈け」+動詞「帰る」の未然形「帰ら」+意志の助動詞「む(ん)」です。「走って帰ろう」という意味です。

 

「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん」の句切れと表現技法

句切れ

短歌の中の大きな意味の切れ目を句切れといいます。

 

この歌には句切れがありませんので、「句切れなし」の歌です。

 

途中で切れることなく疾走感をもって詠み上げられた一首です。

 

直喩

直喩とは「~のようだ、~ごとし」といった、たとえであることが分かる言葉を使ったたとえの表現です。

 

この歌では、「ころがりしカンカン帽を追うごとく」とありますが、これは「ころがっていくカンカン帽を追いかけるように」という意味です。

 

実際に、本当にカンカン帽を追いかけて走るのではなく、「まるで、ころがっていくカンカン帽を追いかけるかのようなスピードで」というたとえの表現になります。

 

また、二句の「カンカン帽」と結句の「帰らん」で、「か」「ん」の音が繰り返され、心地よいリズムを生んでいることもこの歌の表現上の特徴です。

 

「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん」が詠まれた背景

 

この歌は、寺山修司がまだごく若い頃、青森高校の学生だった頃に詠まれた一首です。

 

寺山修司は、早稲田大学に入学後、連作「チェホフ祭」が雑誌『短歌研究』の特選に選ばれ、18歳でデビューしますが、この歌はそれ以前のものです。

 

「燃ゆる頬」という連作の中のひとつですが、連作「燃ゆる頬」は緊密なテーマに沿って詠まれた歌群ではなく、それぞれの歌が青春群像をなすような様相の連作です。

 

「燃ゆる頬」から、「ころがりしカンカン帽の…」の歌とイメージが重なる、帽子を詠み込んだものを3首ここでご紹介します。

 

「列車にて遠く見ている向日葵は少年の振る帽子のごとし」

(現代語訳:列車の車窓から、遠くに眺められる向日葵は、少年が振る帽子のように見える。)

「夏帽のへこみやすきを膝にのせて我が放浪はバスになじみき」

(現代語訳:夏の帽子のへこみやすいものを膝にのせてバスに乗っている。私の放浪の旅はバスとは切り離せないものだ。)

「わが夏をあこがれのみが駈け去れり麦藁帽子を被りてねむる」

(現代語訳:私の夏の時の中で、あこがれのみが駈け去って行った。私は、麦藁帽子を被って眠るのだ。)

 

「ころがりし…」の歌も含めて、少年の夏の切なさも感じさせる抒情性の高い歌ばかりです。青少年からの支持が高く、「青春のカリスマ」と呼ばれた寺山修司の一面をよく表しています。

 

これらの歌をおさめた「初期歌篇」は、昭和46(1971)の『寺山修司全歌集』、昭和47(1972)の『寺山修司青春歌集』に収められています。

 

『寺山修司青春歌集』は寺山修司の著作としては初の文庫本として発売されました。この本のあとがきで、寺山修司は以下のように述べています。

 

「はじめての文庫が出ることになった。(中略)映画一本見るよりも安く手に入れることができ、しかも私のほとんど全部の歌がおさめられているということになるわけだ。気やすく、「書を捨てよ、町へ出よう」ということもできるし、読み捨ててくれということもできるわけだ。」

 

『寺山修司青春歌集』は初版発行から約50年、今でも多くの人に愛されています。

 

「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん」の鑑賞

 

道を駈けていく少年の姿、走ることによって巻き起こる風などスピード感がイメージされる一首です。

 

カンカン帽が転がっていくのは、風によって帽子が飛ばされ、それを追っていくのでしょう。

 

「ころがりしカンカン帽を追うごとく」という上の句からは、明るく、若々しい少年の姿や、躍動感が伝わってきます。

 

そして、下の句「ふるさとの道駆けて帰らん」につながりますが、「駈けて帰らん」が上の句の「カンカン帽」と響き合って、「か」「ん」の音の繰り返しで独特のリズムが生まれています。

 

弾むような若々しさが伝わり、言葉も平明でわかりやすく、愛誦性が高い歌です。

 

作者「寺山修司」を簡単にご紹介!

(三沢市にある寺山修司記念館 出典:Wikipedia

 

寺山修司は、昭和10年(1935年)、青森県に生まれた歌人、劇作家です。父八郎は、青森県警に勤務する警官でしたが、戦争に取られ、寺山修司が10歳足らずの頃に戦死しました。

 

10代の早い頃から、俳句や短歌を詠み、青森高校時代には俳句雑誌『牧羊神』を主宰していました。昭和29年(1954年)、早稲田大学教育学部国文学科に入学し、この年、18歳で連作「チェホフ祭」が雑誌『短歌研究』の特選に選ばれました。寺山修司が短歌に傾倒した理由に、同年『短歌研究』に掲載された中城ふみ子の短歌の連作「乳房喪失」に影響を受けたとされます。中城ふみ子や寺山修司らは、既存の短歌のアンチテーゼであり、現代短歌のひとつの始まりと言われます。

 

病気を得て学業を続けることが困難になり、早稲田大学は中退。生活保護を受けて入院生活を送るなど、苦労しました。

 

しかし、昭和30(1955)には処女戯曲「忘れた領分」が早稲田大学で上演され、昭和32(1957)には処女歌集『空には本』が刊行されました。20代のうちに、テレビやら地の人気脚本家となり、昭和42(1967)には、劇団「天井桟敷」を横尾忠則や東由多加らと結成しました。「青少年のカリスマ」ともよばれ、若者からの人気がある表現者でしたが、 昭和50年代半ばから肝硬変を患い、昭和58(1983)47歳で死去しました。

 

「寺山修司」のそのほかの作品

(寺山の墓 出典:Wikipedia)