太古の昔から、和歌は日本人の心を映し続けてきました。明治時代以降、短歌として革新が進められ、様々な作風が生まれました。
今回は明治時代から大正時代にかけて活躍した歌人・若山牧水の名歌「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのわびしさに君は耐ふるや」をご紹介します。
いざ行かむ 行きてまだ見ぬ山を見む このさびしさに 君は耐ふるや
若山牧水 pic.twitter.com/bilyHrPlL2
— さろん:さろん哲学/朝さろん/さろん工房 (@salontetsugaku) July 9, 2017
本記事では、「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのわびしさに君は耐ふるや」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや」の詳細を解説!
いざ行かむ 行きてまだ見ぬ 山を見む このさびしさに 君は耐ふるや
(読み方:いざゆかむ ゆきてまだみぬ やまをみむ このさびしさに きみはたふるや)
作者と出典
この歌の作者は、「若山牧水(わかやまぼくすい)」です。若山氏は九州出身で、明治時代終わりころからから大正時代、昭和初期に活躍した歌人です。
この歌の出典は、『独り歌へる』(明治43年1月(1910年))、『別離』(明治43年(1910年)4月)です。それぞれ若山牧水の第二歌集、第三歌集です。
第三歌集『別離』は、第一歌集『海の聲』および第二歌集『独り歌へる』の歌を再録、さらに新作100首近くを収めて編まれています。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「さあ、行こう。行って、まだ見たことのない山を見ようではないか。このさびしさに、あなたは耐えられるのか。」
となります。
恋する女性に対して呼び掛ける気持ちを詠んだ歌とされ、ロマンチックで抒情的な歌です。
文法と語の解説
- 「いざ行かむ」
「いざ」は誘いかけの間投詞です。
「行かむ」は、動詞「行く」の未然形「行か」+意志の助動詞「む」の終止形です。
- 「行きてまだ見ぬ山を見む」
「行きて」は動詞「行く」の連用形「行き」+接続助詞「て」です。
「まだ」は副詞です。
「見ぬ」は、動詞「見る」の未然形「見(み)」+打消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」です。
「見む」は、動詞「見る」の未然形「見(み)」+意志の助動詞「む」の終始形です。
- 「このさびしさに」
「この」は連体詞。「さびしさ」は、形容詞「さびし」の名詞化したものです。「に」は格助詞です。
- 「君は耐ふるや」
「は」は係助詞です。
「耐ふる」は動詞「耐ふ」連体形「耐ふる」+詠嘆の終助詞「や」です。
「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、一首の中で大きく意味が切れるところを言います。普通の文でいえば、句点「。」がつくところです。
この歌は、「いざ行かむ。」と「山を見む。」で切れますので、「初句切れ」「三句切れ」の歌です。
表現技法
この歌に用いられている表現技法は特にありません。
「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや」が詠まれた背景
若山牧水は、早稲田大学在学中の明治40年(1907年)、21歳だったころに園田小枝子という女性と出会い、恋に落ちます。翌明治41年には小枝子と交際に発展し、若山牧水は身も心も焦がすような恋愛感情を多くの歌に詠みました。
しかし、小枝子の方は実は人妻で、子どももいるという事情もあり、さらに小枝子の従弟と三角関係になるなど、恋愛は泥沼化。順調には進みませんでした。
結婚まで考えた若山牧水の思いに小枝子が応えることはなく、明治44年(1911年)若山牧水25歳のころ、二人の関係は終焉を迎えます。
園田小枝子との燃え上がるような恋、身も心も焼き尽くした激しい恋愛感情と、苦悩、別離の哀しみは、若山牧水の初期の作品には色濃く影響を与えています。
「いざ行かむ…」の歌は、第二歌集の巻頭歌となっています。第二歌集『独り歌へる』には、明治41年(1908年)4月~明治42年(1909年)7月の詠をおさめられています。
これは若山牧水22歳から23歳のころにあたります。つまり、小枝子との恋に悩み苦しんでいた頃です。
「いざ行かむ…」の歌は、恋い慕う女性と心を一つにしたいと思いつつ、すれ違ってしまってそれがかなわない苦しさ、さびしさを見つめて詠んだ歌です。
若山牧水の歌として特に有名なのが・・・
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
(現代語訳:どれだけの山と川を超えてゆけば、寂しさのない国にたどり着けるのかと、今日も旅を続けることだ。)
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
(現代語訳:白鳥は悲しくはないのだろうか。空の青さにも、海のあおさにも染まることなく、孤独に漂っている)
の2首、そしてこの「いざ行かむ…」の歌です。これら3首の歌は「白鳥の歌」と呼ばれ、今でも親しまれています。
「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや」の鑑賞
この歌は、初句・三句で切れ、短い文を重ねて畳みかけるような調子で詠まれています。
「まだ見ぬ山」とは、具体的にどこの山ということではなく、新たな境地に進んで行きたいという気持ちの表れでしょう。
「君は耐ふるや」と問いかける形で結ばれた歌ですが、相手の答えを求めての問いかけというよりも、自らをさいなむ「さびしさ」をかみしめ、自らに問いかけるような雰囲気の歌です。
若山牧水は、青春の哀歓、恋の苦しみと喜びを瑞々しい言葉で歌った歌人として名が知られています。
この「いざ行かむ…」の歌も、青春の愁い、恋する青年の切ない胸のうちを吐露する歌として、多くの人の共感を呼び続けています。
作者「若山牧水」を簡単にご紹介!
(若山牧水 出典:Wikipedia)
若山牧水(わかやまぼくすい)、本名は若山繁(しげる)といいます。明治18年(1885年)宮崎県生まれの歌人です。尾上柴舟(おのえさいしゅう)に師事しました。
明治41年(1908年)処女歌集『海の聲』を自費出版、2年後には第二歌集『独り歌へる』を地方の小さな出版社から刊行します。その後、この二つの歌集を合わせ、さらに新作も加えた第三歌集『別離』が出版されると、歌壇に若山牧水の名が知れ渡るようになりました。
このころ、文学者としての大きな一歩を踏み出した一方で、5年にわたって恋愛関係にあった女性、園田小枝子との関係は深い懊悩を経て終焉を迎えることとなりました。
その後、若山牧水は、明治44年(1912年)に長野県出身の歌人太田水穂の親族、太田喜志子と出会い、明治45年(1912年)結婚しました。
若山牧水と喜志子は子どもにも恵まれ、終生添い遂げています。若山牧水は、大恋愛の破局という経験を持ちながらも、結局はよき伴侶に巡り合えたといえるでしょう。
評判を博した第三歌集『別離』を明治43年(1910年)に発表後、1910年代は毎年のように、歌集、紀行文、随筆を出版しました。詩歌雑誌『創作』、『詩歌時代』を主宰し、精力的に創作活動を続けました。
私生活においては、若山家は静岡県の沼津の景観を愛し、沼津に移住、県による千本松原の伐採への反対運動においても活動するなど、環境問題にも取り組みました。
若山牧水を語るとき、よく言われるのが、酒を愛した漂泊の歌人であったということです。若山牧水は、よく旅をし、とても旅を愛した歌人でもありました。旅中詠も多く、名歌も様々生まれていますし、優れた紀行文も残されています。そして、たいへんな酒豪でもありました。
昭和2年(1927年)、若山牧水は妻とおよそ2カ月にも及ぶ、朝鮮半島の旅を行い、体調を崩します。そして、翌昭和3年(1928年)9月、急性胃腸炎、肝硬変を発症して不帰の客となりました。享年43歳。
若山牧水の死を悼み、師の尾上柴舟は、以下の歌を詠みました。
「そのかみの西行芭蕉良寛の列に誰置くわれ君を置く」
(現代語訳:かつて、旅を愛した漂泊の詩人と称せられた、西行法師、松尾芭蕉、良寛法師と並べる詩人としてだれをあげることができるだろうか。私は、君、若山牧水の名をあげたいと思う。)
旅を愛した歌人、若山牧水は惜しまれてこの世を去ったのでした。
「若山牧水」のそのほかの作品
(沼津市の若山牧水記念館 出典:Wikipedia)
- 幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
- 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
- 山眠る山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく
- うす紅に葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山ざくら花
- たぽたぽと樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る
- 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
- 足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる
- 秋風や日本の国の稲の穂の酒のあぢはひ日にまさり来れ
- うら恋しさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまな人
- 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君