【病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

日本の近代文学に偉大な足跡を残した、国民的歌人「北原白秋」。

 

数多くの詩歌を残し、陰影のある感覚をきらびやかに歌った作品は、今なお多くの人々に愛され続けています。

 

今回は、白秋が残した名歌の中から「病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出」をご紹介します。

 

 

本記事では「病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出」の詳細を解説!

 

病める児は ハモニカを吹き 夜に入りぬ もろこし畑の 黄なる月の出

(読み方:やめるこは はもにかをふき よにいりぬ もろこしばたの きなるつきので)

 

作者と出典

作者は、「北原白秋(きたはらはくしゅう)」です。明治期から昭和前期にかけて活躍した詩人・歌人です。与謝野鉄幹の門下となり、『明星』『スバル』に作品を発表、たちまち新進歌人の筆頭となりました。

 

また、この歌の出典は、1913年(大正2年)自身の誕生日である125日に刊行された第一歌集『桐の花』です。24歳頃から文芸雑誌『スバル』で発表した歌や散文を中心に収録されています。

 

文壇の地位を確立していた白秋でしたが、発行当時は私生活のスキャンダルの影響により、反響は芳しくありませんでした。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「病気の子供が吹くハーモニカの音色が聞こえ、いつの間にか夜になってしまった。トウモロコシ畑の上には黄色い月が昇っている。」

 

という意味になります。

 

外で遊ぶことができない病気の子供の姿と、哀愁を帯びたハーモニカの音色が合わさり、いっそう寂しさを募らせます。この歌は、病弱だった幼少時の体験を詠んだものといわれています。

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文法と語の解説

  • 「病める児」

病気の子供を意味します。

 

  • 「夜に入りぬ」

「夜に」+「入(い)る」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の形式です。「入る」には、「入る、入っていく」だけでなく「至る、達する」という意味もあります。

そのため、この歌の場合は「夜になってしまった」と解釈できます。

 

  • 「もろこし」

トウモロコシのことではなく、イネ科の植物を指しています。茎や葉はトウモロコシによく似ているのですが別品種で、製粉して団子などにしていました。

 

  • 「黄なる」

形容動詞「黄(き)だ」の連用形で、黄色い様を表しています。歌集『桐の花』ではこの歌のほかにも、「黄なる夕日に」「黄なる花粉の」というように、「黄なる」を用いた歌が16首もあります。

 

  • 「月の出」

月が東の空から昇ること、またはその時刻を表します。

 

「病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、意味や内容、調子の切れ目を指します。歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。」が入るところに注目すると句切れが見つかります。

 

この歌の場合は、三句目の「夜に入りぬ」と完了形の助動詞で結ばれており、一旦歌の流れが切れるので「三句切れ」となります。

 

「病める児は」と印象的なフレーズで始まり、続く「ハモニカ」「夜」という言葉に言いようのない寂寥感が広がります。後の下二句は叙情を醸し出す付随的な状況説明のようにも感じられますが、まるで童話のような幻想的な世界を描写しています。

 

体言止め

体言止めとは、文末を助詞や助動詞ではなく、体言(名詞・代名詞)で結ぶ表現方法です。

 

文を断ち切ることで言葉が強調され、「余韻・余情を持たせる」「リズム感をつける」効果があります。

 

この歌も「黄なる月の出」と名詞で結んでおり、あたりを優しく照らす黄色い月が余韻ある歌に仕上げています。

 

「病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出」が詠まれた背景

 

この歌が初めて発表されたのは、1909年(明治42年)9月刊行の文芸雑誌『スバル』です。この時、白秋は24歳ですが、自身の体験を詠んだ歌ではないかと言われています。

 

白秋は幼少の頃、病弱で3歳の時には腸チフスにもかかっています。まるでガラス瓶のように簡単に割れそうだと家族から、「びいどろ瓶」というあだ名までつけられ、壊れ物を触るように育てられました。

 

生家は、江戸時代から栄えていた商家を営む旧家で、家業が傾くまでは裕福な生活を送っていました。外で遊ぶこともままならない病弱な長男坊のため、家人の誰かが舶来品のハーモニカを買い与えたのでしょう。

 

ハーモニカが普及しはじめるのは明治38年以降、日露戦争後にドイツから大量輸入されたのがきっかけですので、この当時は子供の玩具として高価なものだったと推測されます。

 

一人で過ごすことの多かった病弱な少年に友もなく、たった一つ心を慰めてくれるハーモニカが唯一の友だったのかもしれません。

 

そんな淋しさを想起させる幼き日の記憶がこの歌に込められています。

 

「病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出」の鑑賞

 

この歌は、白秋ならではの繊細さと異国情緒を感じさせる一首です。

 

病気のため外へ出て遊ぶこともできず、ただ家で過ごすことしかできない子供。一人ぼっちの寂しさを紛らわそうと、一本のハーモニカを吹き鳴らしています。

 

その物悲しい音色を響かせているうちに、いつしか夜になり少年の侘しさがいっそう胸に迫ります。

 

窓の外は一面モロコシ畑が広がり、灯りはほとんど見られず闇に包まれていました。目線を上へと移していくと夜空へと登っていく黄色い月が見えます。

 

夜ののどかな田園風景と穏やかにあたりを照らす月の光は、非日常的な世界を作り出し、まるで童画のような情景を描いています。幼き日の寂しかった日々を包み込むかのように、心温まる雰囲気で終わらせています。

 

寂寥感だけでなく、安堵感も覚える不思議な魅力ある歌です。

 

作者「北原白秋」を簡単にご紹介!

(北原白秋 出典:Wikipedia)

 

北原白秋(18851942)は、本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)といい、「白秋」は学生時代から用いてきた号です。

 

熊本県玉名郡の海産物問屋や酒造業を営む旧家の長男として生まれました。幼少の頃は病弱でしたが、水郷の自然と風物に囲まれ、感受性豊かに育ちます。

 

中学時代より学業の傍らに詩作に励み、次第に明星派へ傾倒。早稲田大学高等予科に入学後は新詩社へ参加し、『明星』へ積極的に歌を発表していきます。

 

しかし、1908年に木下杢太郎らと明星を脱退後、同年12月に若い芸術家たちを集め「パンの会」を結成し、耽美主義運動を推進します。

 

1909年には象徴詩に新しい風をふきこんだ『邪宗門』を、19011年に少年の日の哀歓をうたった『思ひ出』の二冊の詩集を出版し、多方面に才能が認められていきました。

 

私生活では、松下俊子とのスキャンダルや生家の破産により深刻な精神的ダメージを受けますが、その後も『桐の花』『東京景物詩』など精力的に歌を発表しました。

 

初期の歌風は異国情緒・官能性豊かな象徴的でしたが、次第に自然賛美の作風に転換していきます。短歌・同様・民謡でも独自の境地を開拓し、数々の名作を世に送り出しました。また多くの学校の校歌の作詞も手がけ、今なお歌い継がれています。

 

晩年には糖尿病と腎臓病に罹り、50代でほとんどの視力を失ってしまいます。病床においても積極的な執筆活動を続け、57歳の最期まで創作意欲が衰えることはありませんでした。

 

「北原白秋」のそのほかの作品

(北原白秋生家 出典:Wikipedia