【恋という遊びをせんとや生まれけんかくれんぼして鬼ごっこして】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

今回は、第1歌集『サラダ記念日』が社会現象を起こすまでの大ヒットとなり、現代短歌の第一人者として活躍する俵万智さんの歌「恋という遊びをせんとや生まれけんかくれんぼして鬼ごっこして」をご紹介します。

 

 

本記事では、恋という遊びをせんとや生まれけんかくれんぼして鬼ごっこして」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「恋という遊びをせんとや生まれけんかくれんぼして鬼ごっこして」の詳細を解説!

 

恋という遊びをせんとや生まれけんかくれんぼして鬼ごっこして

(読み方:こいという あそびをせんとや うまれけん かくれんぼして おにごっこして)

 

作者と出典

この歌の作者は「俵万智(たわら まち)」です。

 

短歌にあまり詳しくない人でも、日本ではほとんどの人が名前を知っていると言っても過言ではない有名な歌人です。親しみやすい言葉選びで表現した短歌に定評があり、読者が共感できる内容でありながらも切り口が斬新な作品たちは、今もなお多くの人の心を掴んでいます。

 

また、出典は『かぜのてのひら』です。

 

作者の第2歌集で、1991年に河出書房新社から発行されました。第1歌集『サラダ記念日』の刊行からの4年間、激動だった24歳から28歳までに詠んだ歌を収録しています。タイトルの「かぜのてのひら」は、収録されている一首「四万十に光の粒をまきながら川面なでる風の手のひら」からとったものだそうです。

 

現代語訳と意味 (解釈)

俵万智の歌は現代語で詠まれていることがほとんどですが、この歌に関しては少し古典的な言い回しが使われています。現代語に直すと次のようになります。

 

「恋という遊びをしようと(私はこの世に)生まれてきたのだろうか。かくれんぼして、おにごっこして」

 

恋を遊びに例えて、今の自分を見つめている歌です。

 

では、語の意味や文法を確かめながら、この歌の真意を読み取っていきましょう。

 

文法と語の解説

  • 「恋という」

「恋」は辞書で引くと「特定の人に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。」と書かれています。さらに「恋愛」の項を見ると「特定の人に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。また、互いにそのような感情をもつこと。」とされています。この歌においても、片想いも両想いも含めての「恋」のことなのでしょう。格助詞「と」+動詞「いう」が付くことで、「恋」という単語が強調されています。

 

  • 「遊びをせんとや生まれけん」

名詞「遊び」+格助詞「を」、続く「せんとや」は古典的な語句で「するために」という意味です。動詞「生まれる」+過去を表す助動詞「けん(けむ)」で、「生まれたのだろうか」という意味になります。このフレーズは実は作者のオリジナルではなく、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という平安時代末期の歌謡集にある歌の歌詞の一部です。

 

  • 「かくれんぼしておにごっこして」

「かくれんぼ」「鬼ごっこ」は言わずもがな遊びの名前です。かくれんぼは正確には「隠れん坊」といいます。「して」は、動詞「する」連用形+接続助詞「て」です。「~して」の後は一般的には言葉が続きますが、この歌では最後が「して」で終わっています。まだ先に言葉が続くような余韻を生み出しています。

 

「恋という遊びをせんとや生まれけんかくれんぼして鬼ごっこして」の句切れと表現技法

句切れ

この歌は三句切れです。

 

前半の三句までで「恋という遊びをするために自分は生まれてきたのだろうか」と自問し、一般の文でいえばここで句読点「。」が入ります。

 

そして視点は変わり、四句と結句では「かくれんぼ」「おにごっこ」と具体的な遊びの名前が並びます。2句にある「遊び」の内容を詳しく描いているのですね。

 

字余り

短歌の魅力の一つは、五・七・五・七・七のリズム感にあります。字余りとは、通常五・七・五・七・七のリズムで表現するところを、あえて六音や八音で表現することです。

 

今回の歌は、2句が7音になるところを「8音」にしています。表現的な効果を狙ったものというよりも、「遊びをせんとや生まれけん」というフレーズを使いたかったためと考えられます。

 

本歌取り

本歌取りとは、有名な古歌の1句もしくは2句を自作に取り入れて作歌を行う方法のことです。

 

定義としては、同じ言葉が一つや二つあってもそれだけで本歌取りとは言わず、本歌との間に密接な関係があってこそのものだとされています。また、本歌取りという技法自体は『新古今集』以後は廃れていったものです。

 

そのため、「恋という…」の歌が本歌取りの歌にあたるのかどうかは意見が分かれます。単なる「オマージュ」と言ったほうが相応しいかもしれません。

 

本歌取りが用いられていると見るならば、「遊びをせんとや生まれけん」が本歌取りの部分となります。もととなる本歌は短歌ではありませんが、平安時代後期の歌謡です。もととなる歌を背景として用いることで、その歌を踏まえて歌の雰囲気をつくる効果をもたらしています。

 

「恋という遊びをせんとや生まれけんかくれんぼして鬼ごっこして」が詠まれた背景

 

この歌の二句と三句にわたっての「遊びをせんとや生まれけん」は、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という平安時代末期の歌謡集にある歌の歌詞の一部です。

 

<梁塵秘抄に載っている歌>

遊びをせんとや生れけむ

戯れせんとや生れけん

遊ぶ子供の声聞けば

わが身さへこそゆるがるれ

 

作者の俵万智さんも、この歌を知ったうえで作歌しています。遊びをせんとや生まれけん…「遊ぶために生まれてきたのだろうか」というフレーズが、ふとしたときに思い出され、口ずさんでいたのだそうです。

 

「恋という…」の歌ができたときのことを、俵万智さんは次のように語っています。

 

好きな人の心が見えない。一生懸命探そうとする。かと思うと一方で、知らず知らずのうちに、自分も心を隠していたりする。追いかけても追いかけてもつかまえられない。つかまえたと思うと今度は相手が鬼になる。何故か逃げたくなって、走りだそうとする自分。

そんなふうな、わけのわからない「恋」に疲れはてていた時だった。『梁塵秘抄』の一節が、またふっと浮かんできたのである。

(出典:https://allreviews.jp/review/746)

 

この話から、「恋という…」の歌が作者の実体験をもとに詠まれたのだと分かります。詠まれたのは作者24歳から28歳までの4年間。この間に俵万智さんは教師を辞めて歌の道に進むことを選んでいます。

 

職とともに人間関係が大きく変わり、恋愛でも様々な出来事があったのかもしれませんね。

 

「恋という遊びをせんとや生まれけんかくれんぼして鬼ごっこして」の鑑賞

 

【恋という遊びをせんとや生まれけんかくれんぼして鬼ごっこして】は、恋を遊びに例えて、恋をしている自分を見つめている歌です。

 

隠れたり、探したり…。追いかけたり、追いかけられたり…。

 

恋をしていると、そんな場面がたくさんあります。まるでかくれんぼや鬼ごっこのよう。けれどもそんな「遊び」のような恋に、自分自身は一生懸命なのです。

 

恋に必死になっているとき、ふと立ち止まり自分を客観視する…「なんでこんなに必死になっているんだろう」「恋なんて遊びみたいなもの」、と冷静になる瞬間はありませんか。逆に、「自分はこの恋をするために生まれてきたんだ!」という強い思いになることはありませんか。

 

この歌は、そんな冷静さと熱情とが共存している恋を絶妙なバランスで描いていると感じます。

 

作者「俵万智」を簡単にご紹介!

 

俵万智は、現在も短歌界の第一人者として活躍する歌人です。

 

1962年大阪府門真市で生まれ。13歳で福井に移住、その後上京し早稲田大学第一文学部日本文学科に入学しました。歌人の佐佐木幸綱氏の影響を受けて短歌づくりを始め、1983年には、佐佐木氏編集の歌誌『心の花』に入会。大学卒業後は、神奈川県立橋本高校で国語教諭を1989年まで務めました。

 

1986年に作品『八月の朝』で第32回角川短歌賞を受賞。翌1987年、後に彼女の代名詞にもなる、第1歌集『サラダ記念日』を出版。短歌になじみがなかった人にも分かりやすい表現が受け、瞬く間に話題を呼び、ベストセラーになりました。『サラダ記念日』は第32回現代歌人協会賞を受賞しています。

 

高校教師として働きながらの活動でしたが、1989年に橋本高校を退職。本人曰く、「ささやかながら与えられた『書く』という畑。それを耕してみたかった。」とのことで、短歌をはじめとする文学界で生きていくことを選んだそうです。

 

その後も第2歌集『かぜのてのひら』、第3歌集『チョコレート革命』と、出版する歌集は度々話題となりました。現在(2022年)は第6歌集まで出版されています。短歌だけでなくエッセイ、小説など活躍の幅を広げています。現在も季刊誌『考える人』(新潮社)で「考える短歌」を連載中。また19966月から毎週日曜日読売新聞の『読売歌壇』の選と評を務めています。20196月からは西日本新聞にて、「俵万智の一首一会」を隔月で連載しています。

 

プライベートでは200311月に男児を出産。一児の母でもあります。

 

「俵万智」のそのほかの作品