【頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞など

 

その由来をたずねれば、いにしえの時代にまでつながる日本の文芸「短歌」。

 

多くの歌人がすぐれた歌を残していますが、その中でも特に叙情性の高い歌を詠んだ歌人の一人として名高い人物に「石川啄木」がいます。

 

今回は石川啄木の短歌の中から、「頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず」という歌をご紹介します。

 

 

本記事では、「頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず」の詳細を解説!

 

頬につたふ なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず

(読み方:ほにつたふ なみだのごはず いちあくの すなをしめしし ひとをわすれず)

 

作者と出典

この歌の作者は「石川啄木(いしかわたくぼく)」です。明治時代に活躍した詩人・歌人です。

 

この歌の出典は、石川啄木の第一歌集『一握の砂』(第一部:我を愛する歌)

 

一握の砂は、明治43(1910)12月に刊行された歌集です。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「頬に伝う涙をぬぐうこともせず、一握りの砂を示してくれた人のことを忘れることはない。」

 

となります。

 

「一握の砂」というのが、何のたとえなのか、この歌に出てくる人は誰なのかということをめぐって解釈の分かれる歌です。

 

文法と語の解説

  • 「頬につたふ」

「頬」は「ほお」ですが、音数を五に合わせるために、「ほ」と読ませています。

「つたふ」は動詞「つたふ」の連体形です。「伝う」ということです。

 

  • 「なみだのごはず」

「のごはず」は動詞「のごふ」未然形「のごは」+打消しの助動詞「ず」連体形です。

 

  • 「一握の」

一握は「いちあく」と読みます。「握」はにぎる。つまり「ひとにぎりの」ということです。

「の」は連体修飾格の格助詞です。

 

  • 「砂を示しし」

「を」は対象を示す格助詞です。

「示しし」は、動詞「示す」連用形「示し」+過去の助動詞「き」連体形「し」です。

 

  • 「人を忘れず」

「を」は対象を示す格助詞です。

「忘れず」は動詞「忘る」未然形「忘れ」+打消しの助動詞「ず」終止形です。

 

「頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず」の句切れと表現技法

句切れ

この句に句切れはありませんので「句切れなし」です。

 

追想の中の人を強く思い浮かべ、一息に詠まれています。

 

表現技法

この歌に表現技法として特に用いられているものはありません。

 

「頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず」が詠まれた背景

 

この歌は、石川啄木の第一歌集『一握の砂』に収録されています。この歌集は、明治43(1910)12月に刊行されたものです。前書きによると、この歌集には、明治41年(1908年)夏以後の短歌が収録されているということです。

 

盛岡での学生生活を回想した歌や、故郷渋民村への望郷の思いを歌った歌が多くおさめられています。

 

この歌は、この歌集の第一部「我を愛する歌」の巻頭から数えて二首目の歌です。そして、歌集のタイトル『一握の砂』の由来ともなった歌です。

 

この歌集の巻頭を飾るのは以下の歌です。

 

「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」

(意味:東海に浮かぶ小島の磯の、白い砂浜で、私は泣きながら蟹と遊んでいる。)

 

石川啄木その家族を物心両面から支え、『一握の砂』で謝意ともに献辞を捧げられている人物「宮崎郁雨」は、この巻頭の歌について、著書『函館の砂 啄木の歌と私と』で言及しています。

 

それによると、この歌の「蟹」は、「彼が泣きながら真剣に取組んでゐる彼の個性であり、自我であり、文学であり、思想であり、哲学であった。」とあります。

 

この歌は、石川啄木が泣きながら苦しみの中で自己の文学に向き合うという、自らの生き方を自ら憐れむ気持ちで詠まれたものだという解釈です。

 

巻頭歌は、作者石川啄木の生き方を示す歌なのです。

 

その次におかれて、歌集のタイトルの由来ともなっている「頬につたふなみだのごはず一握の…」は、作者がどういった思いでこの歌集を世に出すのかを示すものとも言えそうです。

 

そう考えると、句集「一握の砂」は作者の胸に去来する想いから一部をすくい取って、詠んできた歌という解釈も成り立つでしょう。

 

感受性の鋭い文学青年、石川啄木の胸にあふれる想いからしたら、歌を詠むことで表しうる胸の内は、「一握の砂」のようにわずかなものだというたとえです。

 

そして、作者にとっては、歌というのは、泣きながら、苦しみながら生み出すものなのでしょう。

 

歌集を編むということは、たくさん詠んだ歌からさらに選びぬいているでしょうから、この歌集に収められた歌は、選びに選び抜かれたひとにぎりの砂、作者の心を映す短歌の数々だといえそうです。

 

「頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず」の鑑賞

 

一見すると、失恋の歌のように詠めなくもないですが、結局どういうことを詠んだ歌なのか考えると解釈の分かれる歌です。

 

「一握の砂」とはなにをさすのか、そして「一握の砂を示しし人」とは誰をさすのか、色々な説があります。

 

前項で説明したように、日々の思いから生まれた歌を「一握の砂」にたとえ、嘆き苦しみながら生まれた自分の文学を世に問うたという考え方があります。

 

自らの短歌を「一握の砂」にたとえているとすると、「人」の方は、短歌が生まれるきっかけを作った、生活の中でかかわるすべての人を指すとも解釈できるでしょう。短歌が自問自答の末に歌人の心から生まれてくるとしたら、この歌の「人」はあるいは作者自身かもしれません。

 

しかし、これ以外の解釈も成り立ちます。

 

数えきれないほどある海の砂からしたら、一握、ひとにぎりの砂はごくわずかであることから、人ひとりの存在の小ささや、人の一生の短さ、自分の思想や文学を「一握の砂」をたとえたとも言われています。

 

こう考えると、人生やそれぞれが持つ思想、文学について涙を流して語り合った人との思い出を詠ったとも読めます。

 

さまざまな解釈が可能ですが、この歌は現実の景を追憶して詠んでいるわけではなく、観念的な作者の内面世界を詠んだものであるといえるでしょう。

 

 作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木(いしかわ たくぼく)は、本名は石川一(いしかわ はじめ)と言います。明治19(1886年)岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現盛岡市日戸)の寺の住職の子どもとして生まれました。

 

父の転任で、1歳の時に渋民村(現盛岡市渋民)に転居、この渋谷村を啄木は終生慕うこととなります。

 

中学生のころ、詩歌雑誌『明星』に出会います。歌人の与謝野晶子らの歌に親しみました。『明星』誌上や、地元地方紙に短歌が掲載されるようになり、中学校を中退して文学にあこがれて、明治35年(1902年)に上京します。あこがれの与謝野鉄幹・晶子夫妻に会いに行くなどしましたが、生活はうまくいかず、2年後には病気のために帰郷を余儀なくされます。

 

1905年には、第一詩集『あこがれ』の自費出版にこぎつけ、幼馴染の堀合節子と結婚。しかし父の金銭トラブルが発覚、実家のあった渋民村を追放されるように一家で去らなければならないという憂き目にも合いました。

 

家計を支える立場となった啄木は、盛岡や函館でいくつかの職場を経て、明治41(1908)再度上京します。

 

石川啄木は、自分なりの文学、思想、哲学をもち、それらを通じて自己表現することにあくまでも意欲を持ち続けましたが、貧困や、病気や、家族の不和など多くの苦労と闘わなければなりませんでした。

 

明治43(1910)には第一歌集『一握の砂』を刊行しましたが、その一年後あまりして、明治45年(1912年)413日、26歳にて病没しました。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)