【観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

古典文学の時代から日本に伝わる詩のひとつに短歌があります。

 

五・七・五・七・七の三十一文字で自然の美しい情景を詠んだり、繊細な歌人の心の内をうたい上げたりします。

 

今回は、令和初の歌会始の儀で召人に選ばれた栗木京子の歌「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」をご紹介します。

 

 

本記事では、「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」の詳細を解説!

 

観覧車 回れよ回れ 想ひ出は 君には一日 我には一生

(読み方:かんらんしゃ まわれよまわれ おもいでは きみにはひとひ われにはひとよ)

 

作者と出典

この歌の作者は「栗木京子(くりき きょうこ)」さんです。平易な語彙を用いて、恋の歌から時事の歌まで幅広く作品を生み出しています。

 

この歌の出典は『水惑星』です。

 

昭和59年(1984)刊、栗木京子の第一歌集です。20代の歌が収められ、結婚までの第Ⅰ部と中断を経て再開した後の第Ⅱ部からなっています。巻頭の「二十歳の譜」は昭和50年第21回角川短歌賞の次席になった一連がもとになっています。

 

この歌は昭和50年、栗木京子さんが20歳のときの作品です。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「観覧車よ、どうぞとまることなく回り続けてほしい。あなたにはたった一日の思い出でしょうが、私には一生の思い出になるに違いありません。」

 

という意味になります。

 

この歌は、作者が大学2年生の時に詠んだ歌です。大学のゼミの友人たちと遊園地(大阪の枚方パーク)に遊びに行った際にすんなりとできた歌と言われています。

 

文法と語の解釈

  • 「観覧車」

観覧車は、水車のような形をしており、円周上に人が乗るためのゴンドラが付いています。時間をかけて一周しながら高いところからの景色を楽しむアトラクションです。この歌の観覧車は、大阪にある遊園地「枚方パーク」のものを詠んでいます。

 

  • 「回れよ回れ」

この句の「よ」は間投助詞で相手に呼びかけています。「回れ」は命令形の終止形です。

 

  • 「想ひ出は」

「想ひ出」の「ひ」は旧仮名遣いです。「い」と読みます。「思い出」と同義です。

 

  • 「君には一日」

「に」は格助詞で対象を指定しています。「一日」は「ひとひ」と読み、「いちにち」の意味です。

 

  • 「我には一生」

「我」は、私の意味です。「一生」は「ひとよ」と読み、「いっしょう、生涯」の意味です。

 

「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中の大きな意味の上での切れ目です。普通の文でいえば句点「。」がつくところで切れます。少し間合いを取って読むところになり、リズム上の切れ目であるともいえます。

 

この歌では以下のように「回れ」が終止形となっており、意味が一旦切れます。

 

観覧車  回れよ回れ / 想ひ出は 君には一日 我には一生

 

上記のように、二句目の「回れよ回れ」で切れていますので、「二句切れ」です。二句切れは、一般的に鋭い印象になるといわれています。

 

反復法(リフレイン)

反復法(リフレイン)とは、同じ語句を繰り返して感動を強める表現技法です。しらべを生き生きとさせるのにも役立ちます。

 

この句は、「回れよ回れ」の「回れ」と「君には一日我には一生」の「ひと」が繰り返されています。

 

対句

対句とは、意味が対をなす二つ以上の語句を連ねる表現技法です。なるべく種類の似た語句同士が対になっている方がきれいなしらべになります。

 

この句では、「君には一日我には一生」の「君」と「我」、「一日」と「一生」が対比され対句になっています。

 

リズミカルな響きを大切にするために、「一日」は「ひとひ」、「一生」は「ひとよ」と読ませています。

 

体言止め

体言止めとは、結句を体言(名詞や代名詞)で止めて余情を残す表現技法です。

 

この句では、結句の「我には一生」は、「一生」が名詞で体言止めになっています。

 

体言止めを用いることで、一生という時間の長さを読み手に印象付けています。

 

「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」が詠まれた背景

 

栗木京子は、京都大学理学部に在籍中、結社「コスモス」に入会し、作歌を始めます。初期の作品を集めた「二十歳の譜」で、昭和50年に角川短歌賞の次席になります。

 

この歌は、「二十歳の譜」という一連の歌の中の一首で、昭和50年(1975)大学のゼミで遊園地に遊びに行ったときのことを詠んでいます。

 

一見、恋の場面を詠んだ歌に見えますが、作者本人は「深刻な恋の場面で生まれたわけではない」と述べています。

 

しかし、この歌の「回れよ回れ」からは、終わらないでほしい・ずっとこのままでいたいという気持ちを読者は感じるのではないでしょうか。「君には一日我には一生」という表現からも、自分が思うほどに相手は思っていないという切なさが感じられます。

 

また、作者は【思いつくままに「君には一日我には一生」としたが、「我には一生君には一日」という語順にしていたら、恨みがましい歌になっていたかもしれない】と振り返っています。

 

この歌は、昭和54年に刊行された『昭和万葉集』の宣伝広告に取り上げられたことで、多くの人々に知られるようになります。

 

「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」の鑑賞

 

【観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生】は、遊園地で遊んだ体験から感じたことをストレートに詠んだ歌です。

 

初句、「観覧車」の歴史は古く、日本初といわれるのは明治時代のものです。その後、高さを競って日本各地に大きな観覧車が作られていきます。現在の枚方パークの観覧車は最頂部80mです。

 

そして、「回れよ回れ」と続きます。観覧車特有の始まりと終わりが明確ではないところに、このままずっと回り続けてこの時が終わらないでほしい、という願いが感じられます。

 

「想ひ出は」の表記に旧仮名遣いを用いたことで、いつまでも思い出であり続けることを感じさせる効果もあるように感じます。

 

最後に「君には一日我には一生」と続き、同じ出来事を体験しているにも関わらず、感じている思い・重みはこんなにも違うという切ない気持ちが伝わります。観覧車に乗るという出来事に限らず、だれしも一度は感じたことのある気持ちとして多くの人の共感をよんでいます。

 

また、この歌は中学校の教科書にも掲載されています。観覧車という身近なものと思春期の子供たちの関心の高い恋心が組み合わさって、読んだときに我を自分に置き換える方も多いでしょう。

 

作者「栗木京子」を簡単にご紹介!

 

栗木京子さんは、1954年に愛知県名古屋市に生まれ、京都大学理学部に在籍していた20歳ころから作歌を始めました。

 

理知的で聡明と評され、学生時代は恋や青春をストレートに、結婚後は主婦や妻など役割や立場について鋭い視点で描いています。

 

さらに社会的政治的出来事へと作歌の対象は広がっていきます。多様性、重層性をもった歌人として現在も活躍しています。

 

「栗木京子」のそのほかの作品

 

  • トルソーの静寂を恋ふといふ君の傍辺に生ある我の坐らな
  • 飢餓感にちかき空腹感きざす雨のひと日を吾子とこもれば
  • やがてわれにくる更年期(メノポーズ)しづかなる樹の裡にさへ風は渦巻く
  • 真新しき父の手帳に三日後の歯科の予約は赤く灯りをり
  • 普段着で人を殺すなバスジャックせし少年のひらひらのシャツ