【道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

今回は、与謝野晶子の歌「道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る」をご紹介します。

 

 

本記事では、道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る」の詳細を解説!

 

道を云はず 後を思はず 名を問はず ここに恋ひ恋ふ 君と我と見る

(読み方:みちをいわず のちをおもわず なをとわず ここにこいこう きみとあとみる)

 

作者と出典

この歌の作者は「与謝野晶子(よさのあきこ)」です。

 

与謝野晶子は歌人であり評論家で、明治から大正、昭和にかけて活躍しました。初期は情熱的な歌風が珍しく、賛否両論を巻き起こし話題となりました。日露戦争中の反戦的な詩〈君死にたまふことなかれ〉も有名です。

 

また、出典は『みだれ髪』です。

 

みだれ髪は与謝野晶子の第一歌集で、1901年(明治34年)8月、東京新詩社と伊藤文友館の共版として発表されました。女性の恋愛感情をストレートに表現した作品の数々が収められています。「女性は慎ましやかにいることが良い」とされていた当時の道徳観には合わず批判の声も多かったようですが、評価する声も少なくはなく、結果的に与謝野晶子の名を日本全国に知らしめることとなりました。

 

現代語訳と意味 (解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「堅苦しい道徳を言わず、これからのことを考えず、人の噂など気にせず、ここにこうして恋い恋う、そしてお互いを見つめ合う私たちなのです。」

 

という意味になります。

 

のちに『みだれ髪』を自分なりの言葉で訳した俵万智さんの『チョコレート語訳 みだれ髪』では、「世間体道徳来世関係ないここにいるのは恋する二人」と訳されています。

 

世間体や周りの目を気にせず、批判などにも負けずに、ただ自分たちはお互いを想い合い、この恋に没頭しているのだ。という強い思いが詠まれた歌です。

 

文法と語の解説

  • 「道を云はず」

「道」は「人の従い守るべき正しいおしえ」という意味があります。道徳、道理などの言葉の意味を想像すると分かりやすいかもしれません。「云はず」の「ず」は打消しの助動詞なので、「道徳的なことは言わないで」という意味になります。

 

  • 「後を思はず」

「後」は空間的にも時間的にも用いる言葉ですが、この歌では時間的な今より後、つまり未来のことを指しています。「思はず」の「ず」も打消しの助動詞なので、「先のことは考えないで」という意味になります。

 

  • 「名を問はず」

「名」には評判・うわさといった意味があります。「問はず」の「ず」も打消しの助動詞で、「問う+打消し」には「問題として取り上げない」という意味があります。(性別は問わない、過去は問わない等)

 

  • 「ここに恋ひ恋ふ君と我と見る」

「恋ひ」「恋ふ」はともに特定の相手を思い慕うことです。2つ重ねているのは、自分から相手への想いと相手から自分への想いが互いにあることを表すためでしょう。「君と我と見る」は、互いに見つめ合っていることを意味しています。

 

「道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、歌中の意味や内容、調子の切れ目を指します。歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。」が入るところに注目すると句切れが見つかります。

 

この歌は三句切れの歌です。3句目で一度言い切ることで、そこまでの「世間体など気にしない!」という思いをより強く表現しています。

 

字余り

初句が5音になるところを「6音」にしています。詠んだ際に自然に1音余る表現に落ち着いただけで、字余りでの表現効果を狙ったというわけではなさそうです。

 

韻(いん)

この歌は、「云はず」「思はず」「問はず」の3箇所で韻を踏んでいます。これにより歌に特有のリズムが生まれています。

 

「道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る」が詠まれた背景

 

与謝野晶子は、のちに「最初の恋愛が殆ど私の生涯の全部」と語るほど、生涯を鉄幹との恋愛に捧げてきました。そのため、短歌もすべてが自身の経験から生まれたといえます。

 

晶子は21歳の夏に大阪で鉄幹と出会ったとされています。当時鉄幹には内縁の妻・林滝野と子がいたため、晶子の恋愛の始まりは不倫でした。

 

『みだれ髪』には、恋の喜び、罪悪感、葛藤や嫉妬をさらけ出して詠んだ歌が収められています。今回の「道を…」の歌もその一首です。

 

押しかけ女房同然で鉄幹のもとへ身を寄せ、やがて鉄幹は妻と離別。『みだれ髪』を出版した2ヶ月後に2人は結婚しました。

 

「道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る」の鑑賞

 

【道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る】は、道徳観や世間の声にとらわれず自身の恋にひた走る気持ちを詠んだ歌です。

 

この歌が詠まれた明治時代は、まだ古いしきたりや思想が根強かったと考えられます。

 

そんな時代に、道徳観や世間体など気にせずただ恋をしているだけだと歌っているこの歌に込められた強い思いは、まるで世間に向かって「周りの目なんて知ったこっちゃない!この恋は私たち二人のもの!」と言い返しているようにも感じられます。

 

それだけ、この恋に身を捧げていたのでしょう。恋は盲目とも言いますが、周りにどうこう言われる筋合いはないというのもまた一理あると言えます。

 

時代に関わらず、恋には多少の障害があるものです。現代においても、共感を呼ぶ一首なのではないでしょうか。

 

作者「与謝野晶子」を簡単にご紹介!

(与謝野晶子 出典:Wikipedia)

 

与謝野晶子は、1878年(明治11年)大阪府堺に菓子商の三女として生まれました。

 

本名は志よう(しょう)。堺の女学校を卒業後、家業を手伝いながら古典や歴史書に親しみ、詩や短歌を雑誌へ投稿するようになりました。

 

1900年(明治33年)に雑誌「明星」が創刊されると、第2号に短歌を発表。同じころ、「明星」を刊行している新詩社を設立した与謝野鉄幹と出会い、恋に落ちました。そのとき鉄幹には内縁の妻がいましたが、翌年 晶子は家を捨てて鉄幹のいる東京へ向かい、二人は後に結婚しました。

 

結婚の直前、鉄幹との激しい恋愛の過程をつづった歌集『みだれ髪』を刊行。子どもに恵まれ、母・妻として忙しくしながらも、夫とともに新詩社の経営にあたりました。

 

雑誌「明星」が終刊し、生活の糧を得るために晶子は自宅で古典の講義を開きました。後に『源氏物語』の現代語訳もしています。また、夫をフランス留学へ送り出したあと自身も渡欧して社会的視野を広げ、帰国後は女性評論家としても活躍しました。

 

「与謝野晶子」のそのほかの作品

(与謝野晶子の生家跡 出典:Wikipedia