【のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

精神科医と歌人という二つの顔を持ち、医療人としても功績をあげながら短歌を詠み続けた「斎藤茂吉」。

 

彼は山形県生まれの人物で、明治の終わりごろから昭和期の戦後の時期までを活躍しました。

 

今回は、斎藤茂吉の処女歌集にして出世作である『赤光』から「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」をご紹介します。

 

 

本記事では、「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」の詳細を解説!

 

のど赤き 玄鳥ふたつ 屋梁にゐて 足乳根の母は 死にたまふなり

(読み方:のどあかき つばくらめふたつ はりにいて たらちねのははは しにたまふなり)

 

作者と出典

この歌の作者は、「斎藤茂吉(さいとうもきち)」です。彼は山形県の農村で生まれましたが、東京の医師の家の養子となり、医業と短歌という二つの道を歩んだ人物です。

 

また、この歌の出典は、大正2(1913)発刊『赤光(しゃっこう)』です。

 

この歌は、「死にたまふ母」という連作短歌として発表され、当時の歌壇に大きな話題を呼びました。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「のどの赤いツバメが二羽、家の屋根の梁にとまっていて、私の母はその家の中でまさに死に向かわれているのだ。」

 

となります。

 

母の死の瞬間の光景を非常に客観的にそして写生的に詠んだ一首になります。

 

文法と語の解説

  • 「のど赤き」

「赤き」形容詞「赤し」連体形です。

 

  • 「玄鳥ふたつ屋梁にゐて」

「玄鳥」は「つばくらめ」と読みます。ツバメは、人にとってとても身近な野鳥で、幸運をもたらす鳥とも考えられていました。

「屋梁」は、「はり」といいます。屋根全体を支える横材のこと。

 

「ゐて」とは、漢字で表せば「居て」となります。動詞「ゐる」の連用形「ゐ」+接続助詞「て」から構成されています。「居(ゐ)る」とは「存在する、いる」という意味です。

 

  • 「足乳根の母は」

「足乳根の」は「たらちねの」と読みます。「母」にかかる枕詞です。(枕詞については、次項で詳しく説明します。)

「は」は係助詞です。

 

  • 「死にたまふなり」

「死にたまふ」は、動詞「死ぬ」の連用形「死に」+尊敬の助動詞「たまふ」の終止形+断定の助動詞「なり」の終止形です。

死にゆく母、仏になろうとしている母に敬意を込めた表現になります。

 

「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首における意味や内容、調子の切れ目を指します。

 

この歌に句切れはありませんので、「句切れなし」となります。母が黄泉路に旅立った瞬間の情景を、一気に写生するように詠まれた歌です。

 

枕詞

枕詞とは、特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のことです。

 

この歌は「足乳根の(たらちねの)」という言葉が「母」にかかる枕詞となっています。

 

「たらちね」とは、「垂乳根」という字があてられることが多く、乳房の垂れた母親のことだともいわれますが、ここでは確かなことはわかっていません。「たらちねの」で、「母」や「親」にかかる枕詞として『万葉集』の時代から用いられています。

 

斎藤茂吉は、「たらちね」に「足乳根」の字を宛てていますが、似たような表現が別の歌にもあります。「乳足らひし母」という言葉で、「乳を与えて育てたくれた母」という意味です。

 

「足乳根の母」という言葉に自らを生み、15歳になるまで育ててくれた生みの母、実母への限りない思慕を込めた表現であるといえます。

 

「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」が詠まれた背景

 

この歌は、斎藤茂吉の第一歌集『赤光』の中の「死にたまふ母」という連作の中の一首です。

 

斎藤茂吉は、山形県の農村の出です。生家は裕福な家庭ではなく、村内の寺の住職の紹介で15歳の時に東京の斎藤家に養子に出されました。養父・斎藤紀一は医師で、茂吉も東京帝国大学医科大学で学びました。

 

しかし、大正2(1913)516日、生みの母が危篤との連絡を受けて急ぎ実家に向かうことになります。

 

連作「死にたまふ母」は、この母の死の前後のことを詠んだ一連の短歌が収められています。この連作は、以下のように四部構成になっています。

 

  • 第一部・・・母のもとへ急ぐ帰郷の途上での思いを詠んだもの11
  • 第二部・・・母と過ごした最期の時間とその死14
  • 第三部・・・葬送14
  • 第四部・・・温泉行中にて母の喪うことの哀しみ思い返してを詠んだ20

 

今回の歌は、第二部にあたります。つまり、この歌は母の死をはっきり詠んだ歌でこの連作「死にたまふ母」のクライマックスであるといえます。

 

ここで、連作短歌「死にたまふ母 其の二」の、「のど赤き…」の歌の前後の歌もあわせてご紹介します。

 

「我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生(う)まし乳(ち)足(た)らひし母よ」

(現代語訳:私の母よ、お亡くなりになろうとしている母よ、私を生み、乳を与えて育ててくれた母よ。)

「のど赤き玄鳥(つばくろめ)ふたつ梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり」

(現代語訳:のどのあかいツバメが二羽、家の屋根の梁にとまっていて、私の母はその家の中でまさに死に向かわれているのだ。)

「いのちある人あつまりて我が母のいのち死行(しゆ)くを見たり死ゆくを」

(現代語訳:いのちのある人があつまって、私の母のいのちの火が消えゆくのを見守っている、まさに母が旅立つところを。)

 

「我が母よ…」は、死に行く母に必死に呼びかける悲痛な叫びです。「死にたまふ」という敬語表現に、母の恩への尽きせぬ感謝、悲しみ、哀悼…様々な嵐のような感情がこめられています。とても主観的で感情的な一首になっています。「我が母よ」の繰り返しが、読む人の胸を打ちます。

 

また、「のど赤き…」の歌は、一転して作者の視点が俯瞰的・客観的なものに変化しています。ツバメが二羽屋根に止まっており、その家の中で母が死に向かうという内容で、母の死の瞬間の情景を写生的に描き出しています。

 

斎藤茂吉にとっての「赤」は、仏の導きや仏の救いを表す色

「のど赤き玄鳥」とあるように、「赤」という言葉がこの歌には使われています。この歌を含む斎藤茂吉の歌集のタイトルは『赤光』です。「赤」という色は斎藤の機知にとって特別な意味がありました。

 

『赤光』は、阿弥陀経に由来すると作者自身が述べています。阿弥陀経の、以下の文言です。

 

「池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔」

(読み:池中の蓮華は大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。)

(意味:池の中の蓮の花の大きさはまるで車輪のようである。青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光をはなつ。その花姿はたとえようもなく美しくて、香りは清らかで尊いものである。)

 

以上のように、「赤」は斎藤茂吉にとっては仏の導きや仏の救いを表す色でもあったのです。

 

斎藤茂吉は「のど赤き玄鳥」を死にゆく母を導く仏の使いとみなしたのかもしれません。

 

連作「死にたまふ母」を含む斎藤茂吉の処女歌集『赤光』は、多くの人の胸を打ち、当時の歌壇に大きな話題と新しい風をもたらしたのでした。

 

「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」の鑑賞

 

この歌は、母の死の瞬間の光景を非常に客観的にそして写生的に詠んだ一首です。

 

「のど赤き」の初句は深い意味を持っています。

 

まず、「赤」はこの歌集『赤光』にとってはいわばテーマカラー。『赤光』のタイトルの由来は仏典にあり、「赤」は仏の導き・救いを表す色でもあるのです。

 

そして、口をあけて鳴くツバメののどが赤いということは、体の粘膜に血が通っていて赤い、つまり生きているということです。

 

また、ツバメが二羽いたというのはこれから繁殖するつがいなのでしょう。新しいいのちを生み出し育むツバメたちと、臨終を迎えた母が強烈に対比されています。

 

ツバメは人の暮らしに近しい鳥で、水田の害虫をとらえて食べる益鳥であり、幸運の使いともみなされていました。ツバメ姿を見る季節は草も気も鳥も虫も生命を謳歌する季節で、斎藤茂吉も幼い日、母とともにツバメを眺めたこともあったでしょう。それはおそらく、平和であたたかい思い出であったはずです。

 

そして、「足乳根の母は死にたまふなり」という下の句には、生み育ててくれた実の母への思慕、哀悼、感謝、万感の思いが込められています。

 

この歌は、読み手の心に強く訴える深い悲しみと悼みのこめられた一首です。

 

作者「斎藤茂吉」を簡単にご紹介!

(1952年頃の斎藤茂吉 出典:Wikipedia)

 

斎藤茂吉は、明治の末期から昭和20年代後半まで活躍した歌人であり、精神科医でもあります。明治15(1882)、山形県南村山郡金瓶村に生まれました。父は守谷伝右衛門熊次郎、母はいく、守谷家の三男でした。

 

茂吉の両親は、経済的な事情から十分な教育を施すことができないと考え、東京で開業医をしていた斎藤紀一の養子として15歳で上京します。

 

田舎で育った純朴な少年は、都会に出て文学と出会いました。旧制第一高校時代に近代の俳句・短歌の革新者である正岡子規の遺歌集『竹の里歌』を詠んで作歌を始めます。正岡子規の門弟でもあった伊藤佐千夫に師事、雑誌『アララギ』で歌を詠みました。その一方で、東京帝国大学医科大学に進んで医師となり、斎藤家の娘輝子と結婚。斎藤家の家業を継ぎ、精神科医としても大成しました。

 

正式に医師となるのと前後して出版した、第一歌集『赤光』は話題作となり、歌人斎藤茂吉は歌壇の中でも存在感を増していきます。アララギ派の歌人として『赤光』以降、多くの歌集や随筆集を発表し、古典文学研究の論文の発表もしました。

 

精神科医として、欧州に留学したり、研究論文を書くなど学者としても研究熱心であり、養父が興した青山脳病院の院長としても経営手腕を発揮しました。

 

戦時中、戦災によって焼け出され、生まれ故郷の山形に疎開していた時期をはさんで昭和20年代初めには病院長引退します。昭和26(1951)には文化勲章を受章、翌年には『斎藤茂吉全集』が発行されました。

 

昭和28(1953)70歳で病没しました。

 

「斎藤茂吉」のそのほかの作品

 

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