【憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

日本で最も古い歌集といえば、奈良時代末期成立の『万葉集』。全20巻、4500首あまりの歌が収められている長大な歌集です。

 

古代の人々の哀歓を現代に伝え、現代においても共感を集める歌も数多く収められています。

 

今回はこの『万葉集』から、山上憶良の歌「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ」をご紹介します。

 

 

本記事では、「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ」の詳細を解説!

 

憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむそ

(読み方:おくららは いまはまからむ こなくらむ それそのははも わをまつらむそ)

 

作者と出典

この歌の作者は「山上憶良(やまのうえのおくら)」です。

 

山上憶良は奈良時代の貴族であり、歌人です。儒教や仏教に傾倒していたことから、家族愛や貧困など人生や社会問題を題材とした思想性の強い歌を多く詠んでいます。

 

また、この歌の出典は、現存する最古の和歌集である『万葉集』(巻三 337です。様々な身分の人々が詠んだ歌が収録されており、その数は4500首以上にものぼります。

 

憶良は78首もの歌が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂らとともに時代を代表する歌人として高く評価されていました。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「私、憶良めはもはや退出いたしましょう。家では子どもが泣いておりましょう。ほら、その母も、私を待っているものと存じます。」

 

となります。

 

この歌は、宴の席から退出するときの挨拶の歌になります。

 

文法と語の解説

  • 「憶良らは」

「憶良」は作者自身の名前です。

「ら」は、謙遜の意味の接尾辞。「は」は係助詞です。

 

  • 「今は罷らむ」

「は」は係助詞です。

「罷らむ」は、「まからん」と読みます。動詞「罷る」の未然形「罷ら」+意志の助動詞「む」の終止形です。

 

  • 「子泣くらむ」

「泣くらむ」は動詞「泣く」の終始形+推定の助動詞「らむ」の終止形です。

 

  • 「それその母も」

「それ」は、呼びかけの間投詞です。

「そ」は。子どもを指す、代名詞。「の」は格助詞。「も」は係助詞です。

 

  • 「我を待つらむそ」

「を」は格助詞です。

「待つらむそ」は、動詞「待つ」終止形+推定の助動詞「らむ」+終助詞「そ」です。

 

「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中の意味の切れ目のことです。

 

この歌は二句目「今は罷らむ。」と、三句目「子泣くらむ。」で切れますので、「二句切れ」「三句切れ」の歌です。

 

表現技法

この歌の表現技法は、特にありません。

 

「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ」が詠まれた背景

 

この歌は、『万葉集』巻三にある歌で、神亀5(728)ごろの詠ではないかと言われています。

 

この歌には、以下の題詞(歌が詠まれた状況を説明する文章。)がついています。

 

「山上臣憶良、宴を罷る歌一首」

(現代語訳:山上憶良、宴の席を辞す時の歌、一首。)

 

この歌を詠んだ時、山上憶良は九州にいました。筑前守(ちくぜんのかみ)という役職について、任地にあったのです。

 

そして、このとき山上憶良の上官にあたる大宰帥(だざいのそち)という役職についていたのは、大伴旅人(おおとものたびと)でした。大伴旅人の主宰する宴の席で下僚を代表し、山上憶良が辞去の挨拶の歌を詠んだものであると推測されています。

 

この時、山上憶良は70歳前後と思われ、実際に泣いて父の帰りを待つような幼い子が家にいたとも考えにくいため、気の利いた、ある種のユーモアも込めた歌だったといえます。

 

しかし、このような場面で家族を題材に歌を詠んだというところに、山上憶良の人間性や、山上憶良と大伴旅人の関係の良好さが垣間見られるとも言えます。

 

実際、山上憶良は大伴旅人に敬愛を込めた歌を多く奉っていることが、『万葉集』からうかがわれます。

 

このころ、大伴旅人と山上憶良を中心に九州地方の歌人が一大グループをなし、歌を詠み交わしていました。

 

この歌人らの集まりは、後世、筑紫歌壇とも呼ばれ、彼らの歌が多く『万葉集』に取り上げられました。

 

筑紫歌壇は、この時代の歌の潮流のひとつを作ったグループとして評価されています。

 

「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ」の鑑賞

 

この歌は、家族を詠い、退席の許しを請う温和な歌です。

 

宴の席を中座するにあたって詠まれた歌ですが、座を白けさせず、スマートに退席することに心を砕くのは、奈良時代の人も現代のわれわれも同じかもしれません。

 

「おくらら」「まからむ」「なくらむ」「まつらむ」のように、ラの音が繰り返され、独特のリズムを生んでいます。

 

この歌の背景を探っていくと、リアルに山上憶良が“イクメン”だったというよりは、ちょっとした挨拶としての意味合いの方が強い歌であるといえます。

 

しかし、そのような成立背景を外して、単純に家族を思って詠んだ歌であると解釈しても、十分に鑑賞に堪えうる歌です。

 

作者や詠まれた時代についてよく知らなくても、多くの人の共感を得ることのできる歌なのです。

 

1300年近くの時を隔てて、今なお多くの人がこの歌を愛好しています。

 

作者「山上憶良」を簡単にご紹介

 

山上憶良は、奈良時代初期の貴族で、歌人です。斉明天皇6年(660年)ごろ生まれ、没年は天平5年(733年)ごろと言われています。

 

大宝元年(701年)に第七次遣唐使のメンバーになり、唐に渡り最新の学問を学び、文化に触れて帰国しました。

 

養老5(721)東宮(のちの聖武天皇)の侍講(学問の教育係)に任命され、東宮の傍近くに仕えました。

 

神亀5(726)、筑前守(ちくぜんのかみ:筑前の地方長官。筑前は福岡県西部のこと。)に任命され、任地赴きます。神亀5(728)には、高名な歌人でもあった大伴旅人(おおとものたびと)が大宰帥(だざいのそち:太宰は、防衛、外交を主な任務とする地方行政機関。帥は長官。)となって赴任してきました。

 

山上憶良・大伴旅人を中心として、小野老(おののおゆ)・沙弥満誓(しゃみのまんせい)らの歌人が集い、さかんに歌を詠み、その歌の多くが『万葉集』にも収められました。

 

山上憶良、大伴旅人らを中心とした、この歌人のグループは後に筑紫歌壇と呼ばれました。

 

また、山上憶良は遣唐使だった経歴もあり、儒教や仏教にもよく通じていました。父母への恩や、子への愛情を詠んだ歌、貧しい庶民の生きる苦しみを詠んだ歌など、当時の他の歌人とは一線を画す歌も多く詠みました。

 

山上憶良は天平4(732)頃に筑前守の任期を終え、都に戻ったようです。おそらく、その後まもなく病死したのではないかと考えられます。

 

「山上憶良」のそのほかの作品

 

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