和歌には恋心や、美しい風景について詠んだものが多くありますが、他に「懐古」という感情がテーマとなっているものも多く見られます。
「懐古」は昔を懐かしむ気持ちのことで、かつて栄えたものに対して懐かしさや寂しさ、儚さなどを感じることを言います。
今回は懐古の情を歌った平忠度の和歌「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」をご紹介します。
さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
薩摩守忠度
山桜を見ると昔読んでた平家物語のこの歌を思い出します🌸#山桜 pic.twitter.com/h01YuEIYpt
— まんぼう (@mambo_0505) April 3, 2016
本記事では「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」の意味や表現技法・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」の詳細を解説!
さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
(読み方:さざなみや しがのみやこは あれにしを むかしながらの やまざくらかな)
作者と出典
(平忠度 出典:Wikipedia)
この歌の作者は「平忠度(たいらの ただのり)」です。
平安末期に隆盛を極めた平家一門の武将で、平家の棟梁である平清盛の異母弟にあたる人物です。平家は清盛の死とともに衰退し、源氏との戦で滅亡の道をたどりますが、忠度も「一の谷の戦い」で戦死しています。
また忠度は和歌を愛し、和歌の名手で公家の藤原俊成を師と慕って和歌を習っていました。衰退した平家一族が源氏に追われて都を去る際には、忠度は自分の書き溜めた和歌を俊成に託して旅立ったと言われています。
この歌の出典は「千載和歌集」です。
「千載集」とも呼ばれる平安末期の勅撰和歌集です。撰者は藤原俊成で、全20巻、約1290首の和歌が収められています。俊成自身と、俊成と同世代の歌人の歌が主に選ばれており、俊成が理想とした幽玄さや静けさを感じさせるような歌が多いところが特徴です。
「さざなみや」の歌は「詠み人知らず(作者不明)」として収められました。「勅撰和歌集」とは朝廷の命を受けて作られる公的な和歌集なので、朝廷の敵と見なされていた平家の作品は本来は載せられません。しかし忠度の歌が優れていたため、藤原俊成が作者名を伏せて和歌集に入れたのでしょう。朝廷も作者が忠度だと知っていて黙認したようです。
現代語訳と意味
この歌の現代語訳は・・・
「琵琶湖にさざ波が立っているよ。志賀の都は荒廃してしまったが、長等(ながら)の山桜は昔と同じように、変わらずに美しく咲いているのだな」
といった意味になります。
琵琶湖の水面に立つ細かな波を見つめ、そこから琵琶湖の近くにあった昔の都「志賀」へ思いを馳せています。かつて都だった地が今は廃れて荒れてしまっている寂しさを歌い、それに対して長等山の桜の美しさは昔から変わらないのだと詠嘆しています。
普遍的なものとして表現された「山桜」は、栄えや滅びを見つめ続ける存在のように感じられます。
文法と語の解説
- さざなみや
「さざなみ」は「細波」と書き、風が吹いて水面に立つ小さい波のことを言います。「や」は詠嘆を表す助詞です。
「さざなみ」は通常「さざなみの」として、琵琶湖周辺の地名に掛かる枕詞として使われる言葉ですが、この歌では枕詞としての機能も生かしながら、波への詠嘆も同時に表しています。
- 志賀の都は
「志賀」は古い地名で、琵琶湖近くの地域を指す言葉です。7世紀後半に都が置かれましたが、わずか5年で遷都となり志賀の都は棄てられました。このことから志賀はその後の歌人の哀愁や懐古の情を誘い、「さざなみの志賀」や「志賀の都」という言葉で和歌にたびたび登場するようになります。
- 荒れにしを
「荒廃してしまったが」といった意味です。「荒れ」は動詞「荒る」の連用形、「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形、「し」は過去を表す助動詞「き」の連体形、「を」は軽い逆説を表す助詞です。
- 昔ながらの
「昔のままの状態の」といった意味です。「ながら」はあり様や状態を変えないことや、変わらずに動作が行われ続けることを表す言葉です。この歌では琵琶湖を望む山の名である「長等(ながら)」と掛詞になっています。
- 山桜かな
「山桜であることよ」といった意味となります。「かな」は感動や詠嘆を表す終助詞です。この歌では桜が美しく咲いていることと、その美しさが昔から変わらないことへの詠嘆を表していると考えられます。
「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」の句切れと表現方法
句切れ
この歌は「初句切れ」です。
「さざなみや」の「や」が詠嘆の助詞で、感動のポイントを表しています。初句で琵琶湖と水面に立つ繊細な波に心が動かされたことを表現し、第二句以降では都のあった地の荒廃と桜の美しさを対比させています。
枕詞
「さざなみや」は「志賀」に掛かる枕詞で、通常は「さざなみの」として使います。この歌では語尾に詠嘆の「や」を用いて感動も表しています。
掛詞
「昔ながらの」の「ながら」は地名の「長等(ながら)」との掛詞で、「昔と変わりのない長等山」というように情景を詳しく説明する働きをしています。
感動や詠嘆を表す「かな」
第五句の「かな」は大きな感動を表しています。この歌で作者が最も注目しているのは山桜なのだと読み手に伝え、山桜の印象を深めています。
「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」が詠まれた背景
平忠度は若い時に、兄の清盛に連れられて長等山を訪れたことがあったと言われています。忠度はそこから志賀を見て、棄てられた都の荒れ果てた様子に寂しさや物悲しさを感じたのかもしれません。
そのとき、忠度の立つ長等山は桜が満開だったのでしょう。忠度は都とは対照的に美しく咲く山桜に感動し、この桜は志賀の都が人でにぎわっていた頃にも同じ美しさで咲いていたのだと思ったのかもしれません。
また、この歌がいつ詠まれたのかはっきりと分かっていません。
しかし、平家が都を追われて逃げる中で、忠度が昔見た風景を思い出して詠んだものではないかとの説があります。もしそうであれば、忠度は志賀の都と平家の盛衰とを重ねていたのかもしれません。そして、志賀の都を見つめるように咲く美しい桜を思い、この歌を詠んだのではないでしょうか。
平忠度胴塚(首塚)
さヾなみや 志賀の都はあれにしも 昔ながらの山桜かな #平清盛 pic.twitter.com/Gntxstki— 景村明 (@a_kagemura) January 4, 2013
「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」の鑑賞
この歌には、都として栄えて僅かの間に衰退した志賀の地への「憐れみや寂しさ」と、変わらない桜の美しさへの「感動」が詠み込まれています。
導入の「さざなみや」は枕詞ですが、弱い風が志賀の都へ吹いていて細かな波が寄せていくような情景を思わせます。波の先には都の跡地が広がっています。かつて都があったとはとても思えない程荒廃していて、人の手も入らずに放置されているのでしょう。なんとももの悲しい光景です。
色味の感じられない寂しい景色ですが、山桜の登場で歌に一気に華やかさが生まれます。この歌では桜について美しいとは語られていません。しかし「昔ながらの」からは「志賀の都が生き生きと機能していた昔のままの桜」が想像でき、桜の色の鮮やかさを感じることができます。
荒廃した都と美しい桜、盛衰を経て変わってしまった都と変わらない桜を対照的に表現し、「山桜かな」と詠嘆で終わることで、桜の美しさが強く印象づけられています。
作者「平忠度」を簡単にご紹介!
(平忠度 出典:Wikipedia)
平忠度は平安時代末期の武将です。平家の棟梁である平忠盛の六男で、後の棟梁となる平清盛の腹違いの弟に当たります。忠度は幼少期に熊野の豪族に預けられ、武者として育てられました。
母方の祖父は都で有名な歌人であり、その血を引いたのか忠度も和歌が好きでよく歌を詠んでいたようです。平家が栄えて一族が都に上ってからは、歌人で公家の藤原俊成に歌を習っていました。忠度の夢は自分の歌が勅撰和歌集に選ばれることでした。
後に平家が衰退し、一族は都を追放されて西へと逃亡しましたが忠度は逃げる途中で都に引き返し俊成を訪ねて、自分の書きためていた和歌を託したという話が伝えられています。その後間もなく忠度は一の谷の戦いで戦死しました。後に俊成は、託された和歌の中から「さざなみや」の歌を選んで「千載和歌集」に載せたと言われています。
平忠度のその他の作品
- 梅の花 夜は夢にも 見てしがな 闇のうつつの にほうばかりに
- 恋ひわたる 妹が住み家は 思ひ寝の 夢路にさへぞ はるけかりける
- 行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよいの 主ならまし
- 風のおとに 秋の夜ぶかく 寝覚して 見はてぬ夢の なごりをぞ思ふ