明治時代の歌人「伊藤左千夫」。
彼は日々の生活の風景を見たままに表現する「写生主義」という正岡子規が提唱した短歌作りを継承し、多くの歌人を育てた人物です。
今回は伊藤左千夫が詠んだ「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」という短歌をご紹介します。
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— コトパワ (@kotopawa) June 9, 2015
本記事では「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」の意味や表現技法・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」の詳細を解説!
牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる
(読み方:うしかいが うたよむときに よのなかの あらたしきうた おおいにおこる)
現代語訳と意味
この歌の現代語訳は・・・
「牛を飼うような職業の人間が歌を詠む時代には、新しい歌がたくさん生まれる」
といった意味になります。
難しい表現技法などは使われていない、気持ちをストレートに表した歌です。「牛飼い」は酪農家である自分を指していて「これから自分が、今までにはなかったような新しい歌をたくさん詠むぞ」という意気込みが感じられます。
作者と出典
(伊藤左千夫 出典:山武市WEBページ)
この歌の作者は「伊藤左千夫(いとう さちお)」です。
明治時代の歌人・小説家で、乳牛を育て牛乳を販売する仕事をしながら多くの作品を残しました。小説では少年の淡い恋心を描いた「野菊の墓」が有名です。短歌では「万葉集」の歌風や伝統にならった大らかでゆったりとした雰囲気の歌を多く作り、見た風景をそのまま歌に詠む「写生主義」の歌人としても知られています。
正岡子規を師と仰ぎ、子規が亡くなった後にはその歌作りを継承して次世代の歌人へと伝えました。伊藤左千夫に育てられた歌人には土屋文明や斎藤茂吉がいます。
この歌の出典は「左千夫歌集」です。
伊藤左千夫の門弟である土屋文明と斎藤茂吉が中心になって佐千夫の短歌を本にまとめたものです。伊藤左千夫は48歳の若さで亡くなっていて、生前には歌集を出しませんでしたが、彼の短歌や歌論は彼の死後に門下生たちが編集して出版をしています。
伊藤左千夫が短歌を作りはじめるなどの文学活動をしたのは搾乳の事業が軌道に乗って生活に余裕が生まれた30代後半からですが、表現者としての活動は精力的で亡くなるまでに非常に多くの歌を作りました。「左千夫歌集」は彼の歌人としての十数年を凝縮したものです。
文法と語の解説
- 牛飼いが
「牛飼い」とは牛を飼って、その牛を使って仕事をしている人のことで、飼育している牛に車を引かせて人や物を運んだり、牛を使って開墾などをしたりする人のことを指す古い言葉です。この歌では、酪農家である作者自身を指して使われています。
- 歌よむ時に
「歌を詠む時に」という意味です。「時」はこの歌では「時代、世の中、時勢」といったニュアンスで使われています。
- 世のなかの
世の中の、世間の、といった意味です。
- 新しき歌
新しい歌、それまでにはなかったような歌、といった意味です。
この歌では「新しき」は「あたらしき」ではなく「あらたしき」と読みます。「新し」を「あらたし」とするのは奈良時代までの古い読み方で、平安時代以降に「あたらし」という読みが定着しました。「新しき」は「新し」の連体形です。
- 大いにおこる
多く生まれる、といった意味です。「大いに」には非常に、はなはだしく、たくさんなどの意味があります。「おこる」には「起こる」「興る」という漢字が当てられますが、どちらも「始まる、新しく生じる、活動を始める」という状態を指して使います。
「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」の句切れと表現方法
句切れ
この歌は句切れなしです。全体で一つの文になっています。
古語の「牛飼い」の使用
「牛飼い」という古風な言葉が使われています。牛を使う職業は古い時代には「牛飼い、牛使い」などと呼ばれていて身分が低く、対して和歌を詠むのは多くが貴族などの身分の高い人々でした。
作者は酪農家の自分をあえて「牛飼い」と言うことで、雅な世界で詠まれていた「歌」と対比させ、庶民である「牛飼い」が歌を詠むという行為を強調したのかもしれません。
古い読み方「あらたしき」の使用
「新しき」を「あらたしき」と奈良時代以前の読み方をしています。
作者は「万葉集」の和歌を学んでいて、万葉集の時代に詠まれたような伝統的な和歌を重んじていました。そのため、万葉集の時代にならって「あらたしき」という読みの方を使ったと考えられます。
「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」が詠まれた背景
伊藤左千夫は、20代で搾乳業を始めて以来働きづめの日々を送っていましたが、30代後半には事業も軌道に乗り生活に余裕が生まれ、短歌や茶の湯を学び始めました。
この歌は彼が歌人の正岡子規に弟子入りした際に詠んだものです。
左千夫ははじめ、子規の歌風に反発して論争を起こしましたが、子規に論破されてしまいました。その時に子規の思想に感銘を受けて、彼の家を訪ねて弟子となったのです。
論破されて憧れと尊敬を抱くようになった子規の門下生になり、左千夫はとても嬉しかったことでしょう。彼はその嬉しさを込めて「今日から歌人としての自分がスタートするのだ」という意気込みとともにこの歌を作ったのではないでしょうか。
「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」の鑑賞
この歌は、「身分が高くもなく雅な職業でもない牛飼いである自分が歌を詠むような、そんな世の中には今までになかったような新しい歌がたくさん生まれるのだ」という気持ちを率直に詠んだ、希望に満ちあふれた前向きな印象の歌です。
「牛飼い」は作者自身を指すとともに「庶民」を表しているのでしょう。伊藤左千夫が大切に考えていた「万葉集」には農民などの庶民が詠んだ歌も収められています。庶民の和歌は素朴なものが多く、だからこそ普遍的で人間的な心が伝わるものでした。
その後、和歌は次第に技巧が凝らされ、優美な内容のものが重んじられるようになります。左千夫の生きた明治時代でも「和歌とは平安時代に詠まれたような雅なもの」というイメージが強くありました。左千夫は平安の和歌から離れ、万葉の和歌のように庶民が飾らない歌を詠む時代が来ることを期待したのかもしれません。
左千夫が信奉した正岡子規も「古今和歌集」に見られるような形式的な和歌を重んじる風潮を脱却し、「万葉集」の伝統にあるような牧歌的な歌を近代人の感性で作るといった新しい歌作りを目標としていました。この歌の「新しき歌」とは子規と左千夫が共通して目指した「万葉集の伝統を大切にしながら、今を生きる人が作る新しい歌」を表しているのかもしれません。
この歌からは「自分が新しい歌をたくさん作るぞ」という意気込みと共に、「新しい歌がたくさん生まれる新しい時代が来るぞ」といった大きな期待も感じられます。
作者「伊藤左千夫」を簡単にご紹介!
(伊藤左千夫 出典:山武市WEBページ)
伊藤左千夫は、明治時代に活躍した歌人で小説家です。
江戸時代末期の1864年に千葉県の農家に生まれ、農村でのびのびと育ちました。子供の頃から何事にも積極的で行動が早く、前向きな性格だったと言われています。
成長した左千夫は国政への関心を高く持つようになり、論争も好きだったため政治家を目指して法律の学校へ進学をします。しかし目の病気にかかり勉強が続けられなくなったため、政治家の道は断念せざるを得ませんでした。
その後、左千夫はわずかな現金と数冊の本を持って家出をします。実業家を目指して上京したのです。上京した左千夫は牧場で住み込みで働き、その後独立して搾乳業を始めます。一日18時間も働いたと言われており、仕事に明け暮れ努力し続けた結果事業は軌道に乗り、30代の頃には生活にもゆとりが生まれるようになりました。
生活に余裕が出た左千夫は和歌を学び、30代半ばに正岡子規の門弟となって歌人としての活動をスタートさせます。左千夫は子規を大変尊敬して、子規が亡くなった後もその作品を研究し、近代短歌を革新するという子規の精神を受け継いで若い歌人へと伝えていきました。
左千夫は大正2年(1913年)に48歳という若さで亡くなりますが、文学活動をしていた十数年の間に短歌や小説、歌論などを発表し活躍をし続けました。短歌雑誌「アララギ」を創刊させたのも左千夫で、そこからは子規の流れをくむ写実的で生活に根づいた歌作りが特徴の「アララギ派」歌人が幾人も誕生しました。
伊藤佐千夫のその他の作品
- おちたりて 今朝の寒さを 驚きぬ 露しとしとと 柿の落葉深く
- 日のめぐり いくたび春は 返るとも いにしへ人に 又も逢はめやも
- 天地の 四方の寄合を 垣にせる 九十九里の浜に 玉拾ひ居り
- 今朝の朝の 露ひやびやと 秋草や すべて幽けき 寂滅の光
- 曼珠沙華 ひたくれなゐに 咲き騒めく 野を朗かに 秋の風吹く