万葉の時代より人々に親しまれてきた短歌の世界。
「五・七・五・七・七」の三十一文字で、歌人の心情を歌い上げる叙情的な作品が数多くあります。
今回は戦後の歌壇に奔放多彩な才能で切り込んでいった前衛歌人・寺山修司の歌「列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし」をご紹介します。
列車にて
遠く見ている「向日葵」は
少年のふる帽子のごとし
🌻寺山修司🌻今日の誕生花:ひまわり(向日葵)
花言葉:私はあなただけを見つめる#4時 #ナエ pic.twitter.com/wn3RlSwM7v— 花:ありがとうございます🌸戻って来れました✨ (@lilacblueblue) August 5, 2016
本記事では、「列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし」の詳細を解説!
列車にて 遠く見ている 向日葵は 少年のふる 帽子のごとし
(読み方:れっしゃにて とおくみている ひまわりは しょうねんのふる ぼうしのごとし)
作者と出典
この歌の作者は、「寺山修司(てらやましゅうじ)」です。
中学生の頃から短歌を作り、早期から優れた才能を開花させました。さらには表現の場を評論、演劇、映画など幅広い分野にも広げていき、比類なき表現者として活躍しました。
また、この歌の出典は、1957年(昭和32年)に刊行された第一作品集『われに五月を』です。
後の1971年(昭和46年)に発表された『寺山修司全歌集』「初期歌篇」にも収められています。
現代語訳と意味(解釈)
この歌を現代語訳すると・・・
「列車の窓から遠くに咲いている向日葵が見えるが、まるで少年がふる帽子のようだ」
という意味になります。
国語の教科書でも取り上げられている作品なので、耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。車窓から見える向日葵がゆらゆらと風に揺れる様子を、少年が振る帽子のようだと詠んでいます。
夏の情景を動画のように捉えた、どこか懐かしさを感じさせる一首です。
文法と語の解説
- 「列車にて」
名詞「列車」+場所を示す格助詞「にて」の形式です。「列車で」「列車に」とすることもできますが、字足らずになるため「にて」を用いたと考えられています。
- 「ふる」
ここでは動詞の「振る」を意味しています。この歌では省略されていますが、おそらく向日葵は風に吹かれており、その様子を少年が振る帽子のようだと詠んでいます。
- 「ごとし」
「如(ごと)し」は、「(まるで)~のようだ、~に似ている」を表します。
「列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、歌の中で意味やリズムの切れ目のことですが、この歌では句切れはありませんので、句切れなしとなります。
夏のノスタルジックな情景を途切れることなく広げていき、「少年」という輝くような青春性を高らかに歌い上げています。
直喩法
直喩とは、「~のようだ」「~のごとし」などの語を用いて、ある事柄を他のものに例える方法です。
例えば「雪のように白い肌」や「ひまわりのような笑顔」などです。直喩を使うことで、語の持つ印象を強める効果があります。
この歌では「少年のふる帽子のごとし」とあるので、直喩表現が使われていると理解できます。
遠くに見える向日葵の花がまるで帽子のように見えたのでしょう。帽子を振る動作に例えることで、電車の中にいる私を見送っているかのように詠み取れます。
「列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし」が詠まれた背景
この歌には、夏の太陽をイメージさせる「向日葵」や、「少年」という生命力溢れる二つのモチーフを一首の中に取り入れていることから、寺山を苦しめていた病気が影響しているのではないかとする説があります。
寺山は19歳の頃、ネフローゼという重い腎臓の病にかかります。長期入院を余儀なくされ、大学も中退しており生死の境をさまよった経験がありました。
22歳の夏に退院、故郷である青森へ一時帰省していることから、その道中に作られた歌だといわれています。
確かにこの歌の出典となる『われに五月を』の刊行は、21歳の時ですから罹患後の作品とも考えられます。夏の暑さにも負けずに咲く向日葵、見送るかのように帽子を振る少年を登場させることで、これからの自分を鼓舞していたのではないかとも詠み取れます。
しかし、後に発表された『寺山修司全歌集』では、「十五才―初期歌篇」に収められていることから、この歌も1957年以前高校生時代に作られた歌ではないかと推測されます。
つまりネフローゼを発症する前に作られたもので、病気とこの作品は関連がないとも考えられています。
「列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし」の鑑賞
風に揺れる向日葵や無邪気に帽子をふる少年の姿が目に浮かんでくるような、読み手の心を和ませる歌です。
今回は、作者が列車の中から遠くにある向日葵を見ている、と解釈しましたが、列車の中にある向日葵が揺れる様子を詠んだものという見方もあります。さらには「遠く見ている」のは作者ではなく、向日葵が遠くを見ているのだと擬人化して表現しているとする解釈もあります。
いずれの捉え方も共通していえるのは、「少年」という青春のシンボルを表現していることがポイントでしょう。
この歌は発表当時、作品集『われに五月を』の「森番」と題する項に収められています。
他の歌も鑑賞すると、輝くような青春性を懐かしむように詠んだ作品が多く、作者自身が少年ではなくなりつつあることを感じているのが伝わります。
この歌も、無邪気に帽子を振る少年は、かつての自分の姿であり、遠くに見える向日葵の花に、純粋だった心とその姿を投影していると解釈できます。
列車が走るように、過ぎさっていく少年時代を哀惜していることが詠み取れる味わい深い一首です。
作者「寺山修司」を簡単にご紹介!
(三沢市にある寺山修司記念館 出典:Wikipedia)
寺山修司(1935年~1983年)は、、「昭和の啄木」「言葉の錬金術師」などの異名で戦後の日本を駆け抜けた歌人です。
中学生のころ、友人・京武久美の影響により俳句や詩を作りはじめ、1954年『短歌研究』に掲載された中城ふみ子の「乳房喪失」に感銘を受け、本格的に詩作に励むようなります。
青春時代の心情をみずみずしく歌い上げ、「第2回作品五十首募集」では「チェホフ祭」で新人賞を受賞、18歳にして華々しい歌壇デビューを飾りました。
しかし翌年ネフローゼ症候群のため入院生活を送り、早稲田大学も中退することとなります。入院中、寺山の才能を見出した「短歌研究」編集長・中井英夫の尽力により、第一作品集『われに五月を』を出版します。
その後も1958年『空には本』、1962年『血と麦』、1965年『田園に死す』の三冊の歌集を出版しますが、寺山が精力的に短歌を作り続けた期間は短く、デビューから10年あまりに過ぎませんでした。
寺山は本業は何かと問われると「職業は寺山修司です」と名乗ったように、映画監督、小説家、作詞家、脚本家など、あらゆる分野で活躍します。
創作活動を通じて時代に一石を投じ衝撃を与え続けたマルチクリエーターでしたが、敗血症により47歳の若さでこの世を去りました。
「寺山修司」のそのほかの作品
(寺山の墓 出典:Wikipedia)
- ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し
- 森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし
- 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり
- マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
- 君が歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えんとする
- 売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき