明治時代に彗星のように現れて詩歌を詠み、若くして病に倒れて歌人「石川啄木」。
彼の死後100年以上を経て、いまなお人気の高い歌人です。抒情的でロマンチックな短歌をたくさん詠みました。もしかしたら、啄木の名は知らずとも、その歌は知っているという人もいるかもしれません。
今回は石川啄木の短歌の中から、有名中の有名な歌「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」をご紹介します。
はたらけど はたらけど
猶わが生活 楽にならざり
ぢっと手を見る(石川啄木 「一握の砂」より)
でも、あんた、働いてないでしょ? pic.twitter.com/x0CwCImxKW
— Pon-kun (@Pon_s_servant) June 6, 2017
本記事では、「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」の詳細を解説!
はたらけど はたらけど 猶わが生活 楽にならざり ぢっと手を見る
(読み方:はたらけど はたらけど なおわがくらし らくにならざり じっとてをみる)
作者と出典
この歌の作者は「石川啄木(いしかわたくぼく)」です。
生活の哀歓、望郷の思いなどを抒情性豊かに詠みあげた明治の歌人です。
この歌の出典は、石川啄木の第一歌集『一握の砂』。明治43年(1910年)12月に刊行された石川啄木の第一歌集です。
この歌集『一握の砂』は五部構成で、この歌は第一部の「我を愛する歌」に収められています。
「我を愛する歌」の章は、作者・石川啄木の人生観や、歌人としての石川啄木を印象付ける一連の歌10首から始まります。そして、父母のこと、友のこと、労働についての歌、生活の苦しみなどが多く詠まれています。怒りや、苦しみ、悲しみ、不安、死への念慮といった感情の吐露されている歌も多くあります。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「働いても働いても私の暮らしはちっともよくなっていかない。嘆かわしい気持ちでじっと自分の手を見つめている。」
となります。
啄木の名は知らなくても、この歌のことは知っているという人も中にはいるかもしれません。
文法と語の解説
- 「はたらけどはたらけど」
「はたらけ」は動詞「はたらく」の已然形「はたらけ」+逆接の接続助詞「ど」。「はたらいても はたらいても」という意味です。
- 「猶わが生活」
「猶」は「なお」と読みます。「まだ、やはり、それでも」という意味の副詞です。
「生活」は「くらし」と読ませています。
- 「楽にならざり」
「楽に」は形容動詞「楽なり」の連用形です。「ならざり」は、動詞「なる」未然形「なら」+打消しの助動詞「ざり」終止形です。
- 「ぢっと手をみる」
「ぢっと」は今のかなづかいで書けば、「じっと」、副詞です。
「を」は目的語を表す格助詞です。「みる」は動詞「みる」終止形です。
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことです。読むときもここで間をとっていくとよいとされ、リズム上でも切れ目にあたります。普通の文でいえば句点「。」がつくところで切れます。
この歌は「楽にならざり」のところで句が切れますので、「四句切れ」の歌となります。
破調
短歌は「五・七・五・七・七」の音数で詠まれるのが原則です。しかし、あえて、五音や七音から外れた音数で句を構成していくこともあります。
この歌は・・・
「はたらけど(5) はたらけど(5) なおわがくらし(7) らくにならざり(7) じっとてをみる(7)」
となっています。
音数が少ないことを字足らず、多いことを字余りといいますが、この歌は、二句が字足らず、三句が字余りです。このように、規程の「五・七・五・七・七」から外れた音数で詠まれた歌を「破調」といいます。
「はたらけど はたらけど」の繰り返しが心地よく、定型のリズムからは外れていますが、耳なじみの良い歌になっています。
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」が詠まれた背景
この歌は、明治43年(1910年)12月に刊行、石川啄木の第一歌集『一握の砂』に収録されています。
この歌が詠まれたのは、同年(1910年)の夏ごろで、8月に『東京朝日新聞に掲載』されたのが初出のようです。
歌集『一握の砂』には、「はたらけどはたらけど…」の前後に以下の歌が収められています。
誰が見ても とりどころなき 男来て 威張りて帰りぬ かなしくもあるか
(意味:誰が見ても取り柄がない男がきて、威張って帰っていった。悲しいことだ。)
【今回の歌】はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る
(意味:働いても働いても私の暮らしはちっともよくなっていかない。嘆かわしい気持ちでじっと自分の手を見つめている。)
何もかも 行末の事 みゆるごとき このかなしみは 拭ひあへずも
(意味:何もかもよい見通しのない行く末ばかりが思い浮ぶようで、悲しみはぬぐいさることができない。)
とある日に 酒をのみたくて ならぬごとく 今日われ切に 金を欲りせり
(意味:ある日に、酒を飲みたてたまらなくなるように、今日私は金が欲しくてたまらない。)
「誰が見ても…」の歌に出てくる不愉快な男は、職場の人でしょうか、人間関係のストレスが感じられます。
また、「はたらけど…」と「何もかも…」二首の歌からは、努力しても報われない、明るい未来を描けない深い絶望が伝わってきます。「とある日に…」の歌の率直すぎる吐露に、生活の苦しさがのぞきます。
石川啄木の自堕落さや社会的責任の自覚なさを指摘する声もありますが、なかなかに苦しい生活を強いられていることは事実です。
また、「はたらけど…」の歌を詠む直前、明治43年(1910年)6月には、社会主義者幸徳秋水らが天皇暗殺を企てたかどで一斉検挙される大逆事件が起こっています。石川啄木はこれらの事件に非常に関心をもって、関係者の話を聞いたり、裁判資料を読んだり、思想書を読みこんだりしました。
石川啄木は、自らが落伍者であるという自覚や、自らの貧困・病といった生活の苦労から、「社会の体制への怒りがあった」「社会主義に傾倒していた」ともいわれます。
(※社会主義・・・生産や富の分配を、社会全体で共有して、身分の差や、貧富の差のない社会を求める考え方のこと)
石川啄木のそのような思想が、「はたらけど…」の歌のうらにある、とする指摘もあります。
石川啄木のこの有名な歌の与えるイメージと、実際の彼の生活ぶり(職を転々としている、女性問題、借金問題)のギャップを面白おかしく取り上げる言説もありますが、社会福祉という概念は今と異なっていましたし、医療や福祉の水準もはるかに低いものでした。現代の感覚で簡単に推し量れない問題もあったのです。
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」の鑑賞
この歌は、今なお多くの共感を得ている、とても有名な歌です。労働に関する社会問題が提起されるときに、よく引き合いに出される歌でもあります。
「楽にならざり」の四句切れの歌ですが、ここでため息をついて、詮方なしに「ぢっと手を見る」作者の姿が浮かんできます。
また、「はたらけどはたらけど」という表現からは、努力しても報われない、明るい未来を描けない深い絶望が強く伝わってきます。
もしかしたら現代でも、その切ない姿に自らが重なるという人もいるかもしれません。
そして、石川啄木が仕事を詠んだ歌には、次のようなものもあります。
こころよく 我にはたらく 仕事あれ それを仕遂(しと)げて 死なむと思ふ
(意味:こころよく働ける仕事が私にあればよい。それを成し遂げて死んでいきたいと思う。)
こころよき 疲れなるかな 息もつかず 仕事をしたる 後(のち)のこの疲れ
(意味:こころよい疲れであることだ。息もつかずに仕事をした後のこの疲れは。)
石川啄木にとって、「こころよく我にはたらく仕事」とはどんなもので、26年の生涯においていくつそのような仕事を成し得たのでしょうか。
仕事をすること、生活すること、その苦しみと喜び、生活に密なところで歌人石川啄木の歌は生まれていたのです。
作者「石川啄木」を簡単にご紹介!
(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia)
石川啄木(いしかわ たくぼく)は岩手県出身の詩人・歌人です。
生年は明治19年(1886年)、没年は明治45年(1912年)、明治期を駆け抜けるように生きて、歌を詠んで、亡くなった薄倖の文学者です。啄木というのは雅号で、本名は石川一(いしかわ はじめ)と言いました。
中学生のころから、詩歌雑誌『明星』に傾倒、歌人の与謝野晶子らの短歌に心奪われます。
明治35年(1902年)に『明星』に初めて短歌が掲載されました。学校にいづらくなったこともあり、中学校を自主退学。そのまま文学へのあこがれやみがたく上京しますが、2年後に肺結核がわかり、父の迎えに応じて故郷岩手県渋民村に戻ります。
しかし、その渋民村からも追われるように出なければならなくなります。明治38年(1905年)、村の寺の住職を務める父の宗費滞納が明らかになり、曹洞宗から罷免されてしまうのです。
啄木の人生は、とにかく病・貧困・困難・挫折の連続でした。友人や縁者に借金をしたり、様々支援を受けて暮らしていました。
盛岡や北海道で職を転々とした後、明治41年(1908年)、啄木は再び上京します。
新聞社に勤めながら創作活動も続け、明治43年(1910年)の大逆事件(幸徳秋水ら社会主義者たちが天皇暗殺を企てたとして一斉検挙された事件。)に大きく関心を持ち、社会主義思想にも興味を持っていたといわれます。貧困や病と闘わざるをえない自らの境遇を、社会に虐げられたものとして怒りを覚えていたともいわれます。
明治43年には、啄木にとっての第一歌集『一握の砂』を刊行。第二歌集の出版の話も出ていましたが、結核が悪化し、明治45年(1912年)4月13日が石川啄木の命日となりました。享年26歳。あまりにも早い死でした。
啄木の死後、友人たちの尽力により、第二歌集『悲しき玩具』をはじめとして、遺稿数点が書籍となって刊行されました。
「石川啄木」のそのほかの作品
(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)
- やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
- 馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に
- 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
- 頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
- 砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日
- かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川
- いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ
- たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
- 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ
- ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
- 石をもて追はるがごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし
- ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな