和歌には作者の名前が「詠み人知らず」となっているものがあります。
作者不詳、または作者匿名といった意味ですが、作者の名前が分からなくても優れた歌は多くあり、中には作者の名前が分からなくなる程に古くから詠み継がれてきた名歌もあります。
今回は「詠み人知らず」の和歌「飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ」を紹介します。
飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ
って和歌が地味に好きだ。飛鳥が入ってるからじゃないよ。
— 佐々朔郎/1-024 (@sasa_sakurou) October 11, 2012
本記事では「飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ」の詳細を解説!
飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ
(読み方:あすかがわ ふちはせになる よなりとも おもいそめてむ ひとはわすれじ)
作者と出典
この歌の作者は「詠み人知らず」とされています。
「詠み人知らず」とは、その和歌は有名なのに作者の名前が分かっていない場合などに古くから作者名として使われていた言葉です。また、作者の名前は分かっていても何らかの事情で実名では和歌集に載せられなかった場合にも「詠み人知らず」とされます。昔は人気のある和歌は口頭で歌い継がれ、作者の名前は忘れられることがしばしばありました。そのため和歌集には詠み人知らずの歌が多く見られます。
また、この歌の出典は「古今和歌集」です。
平安時代前期に編纂された最初の「勅撰和歌集」です。勅撰和歌集とは天皇の命令によって作られる歌集のことで、この時の天皇は醍醐天皇です。歌の選定は紀貫之などの当時の歌人が務めました。「古今和歌集」は20巻で約1,100首の和歌が収められており、当時の平安貴族文化を象徴するような優美で繊細な歌が多く選ばれているのが特徴です。
現代語訳と意味
この歌を現代語にするとは・・・
「ああ飛鳥川、淵が瀬になるような世の中だとしても、恋に落ちた相手のことは私は決して忘れない。」
となります。
何事も変わりやすい世の中だが自分の想いは変わらないという一途な恋心を詠んだ歌です。
「淵」は川の深い所、「瀬」は浅い所のことです。飛鳥川は深さの定まらない川として古来から知られており、変わりやすい物事を表す言葉として和歌にも多く使われました。作者はそれを踏まえて、自分は心変わりなんてしないという気持ちを強調したのでしょう。
文法と語の解説
- 飛鳥川
奈良県の川の名前です。流れが早く、深さが変わりやすい川として古来から知られ、変わりやすいもののたとえとしてよく用いられました。
- 淵は瀬になる
「淵」は水が深くよどんでいること、「瀬」は浅瀬を指す言葉です。この歌では飛鳥川の流れが変わって、深いところもすぐに浅く変わることを表しています。
- 世なりとも
世の中であっても、といった意味です。「世」は世の中、世間、現世などの意味があります。「なり」は断定を表す助動詞の連用形、「とも」は逆説の接続助詞です。
- 思ひそめてむ
「恋心を感じはじめたような」といった意味で、現代風に言い換えると「一度恋してしまったら」のようになります。
「思ひそめ」は「思ひそむ」の連用形で「思ひ初む」と書きます。恋をはじめる、恋に落ちるといった意味です。「て」は過去を表す助動詞「つ」の未然形、「む」は推量の助動詞「む」の連体形です。
「てむ」は「~できるだろう」という推測や願望を表すこともありますが、ここでは自分の体験を客観的に見て例として挙げるという使われ方をしており「~というような」との意味になります。
- 人は忘れじ
「人を忘れない」といった意味で、この歌では「一度恋してしまったら、そのような相手のことは忘れない」という意味となります。
「忘れ」は「忘る」の未然形、「じ」は打消しの意志を表す助動詞の終止形です。
「飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ」の句切れと表現方法
句切れ
この歌は「初句切れ」です。
「飛鳥川」で一旦文章が切れており、二句以降は作者の気持ちが詠まれています。初句を体言止めにすることで「ああ飛鳥川…」のように作者の感慨を強調する効果が生まれます。
掛詞
掛詞とは一つの読みに複数の意味を持たせる和歌の表現技術です。情景や心情を一言で表し、短い言葉で和歌の内容に深みを持たせる効果があります。
この歌では地名の飛鳥川に「明日」が掛詞となっており、深さの変わりやすい飛鳥川に「明日どうなるかも分からない変わりやすい世の中」という意味を持たせています。
「飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ」が詠まれた背景
飛鳥川は深さの変わりやすい川として知られていたため、古来から「無常」をたとえる言葉として多く使われていました。「無常」とは世の中に変わらないものはなく、この世は儚いものだという考えのことです。
この歌が詠まれた当時、世間にはこんな歌がありました。
「世の中は なにか常なる 飛鳥川 きのふの淵ぞ けふは瀬になる」
意味:世の中には何も永遠のものなどはない。昨日淵だったところが今日は浅瀬になっている飛鳥川のように
作者はこの歌を知っていたのでしょう。そして自分に照らし合わせて、自分には当てはまらないと思ったのかもしれません。
作者は自分の一途さを強く信じていて、「永遠のものなんて何もないという歌があるけれども私の想いは違う」という自分なりの歌を作ったのではないでしょうか。
「飛鳥川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ」の鑑賞
この歌には「何もかもが姿を変えていく儚い世の中だけど、自分の心は変わらない、一度恋してしまったらその人のことは決して忘れたりしない」という強い想いが詠み込まれています。
初句の「飛鳥川」は作者が実際に飛鳥川を見て詠んだというよりは、無常の象徴としての飛鳥川に対する感慨を表していると考えられます。「飛鳥川よ、お前は姿を変えていくものだよね」といった呼びかけの意味があるのかもしれません。
「思ひそめてむ人(自分が恋に落ちたような人)」が、これから出会うだろう理想の相手なのか、既に恋をした誰かなのかはっきりとは分かりませんが、恐らくは最近恋に落ちた特定の人なのではないでしょうか。「忘れじ」の「じ」は主語が自分の場合は否定を表す助詞で、「忘れない」と否定で歌を終えているところに強い意志と相手への愛情を思わせます。
この歌からは作者が愛情深い人物であることや、恋に落ちた相手を一生好きでいようと思う純粋さや若さが感じられます。
「詠み人知らず」について簡単にご紹介!
作者が「詠み人知らず」となっている和歌は多くあり、古今和歌集では全体の約4割が詠み人知らずとなっています。
「詠み人知らず」とは、昔に詠まれた歌だけが残っていて作者が分からない場合に作者名として使われる言葉ですが、あえて作者名を伏せたい場合にも用いられます。
例えば、和歌集を作る際に同じ作者の和歌ばかりになって選考に偏りが出てしまった時や、勅撰和歌集を作るように命じた天皇自身の和歌を載せたい時などに作者名を「詠み人知らず」とすることがあります。
他に、本名では和歌集に載せられない事情がある場合にも「詠み人知らず」が使われます。平安末期の武将「平忠度(たいらの ただのり)」は優れた歌人でもありましたが、平家が朝廷の敵となって滅びたため本名では勅撰和歌集には載せられませんでした。彼の歌は「詠み人知らず」として和歌集に取り上げられ、その後時代が下ってからは本名とともに勅撰和歌集に載せられています。
今回紹介した「飛鳥川」の和歌の作者は分かっておらず、女性か男性かも分かりません。しかし飛鳥川に無常をたとえた和歌を知っていたと考えられることから、教養のある人物で、平民ではなく貴族だろうと推測されます。また、歌に詠まれた恋心が初恋であろうことや、恋に対する純粋さと一途さが感じられるため、まだ若い年齢ではと考えられます。
作者が「詠み人知らず」とされる他の有名作品
- 玉かつま 逢はむと言ふは 誰れなるか 逢へる時さへ 面隠しする(万葉集)
- さつきまつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする(万葉集)
- 春ごとに 花のさかりは ありなめど あひ見むことは 命なりけり(古今和歌集)
- 恋ひ恋ひて あふ夜はこよひ 天の川 霧立ちわたり 明けずもあらなむ(古今和歌集)
- さざなみや 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな(千載和歌集)